拝み屋怪談 花嫁の家1
拝み屋怪談 花嫁の家とは郷内心瞳によるホラー小説である。
2024年10月26日、バナニー兄貴により本小説を原作とした【劇場版ホラー淫夢】母様の家という動画がニコニコ動画に投稿された。しかし投稿から数日経過した10月29日、原作者の郷内心瞳が著作権侵害の主張を行い氏に対応を迫った。その結果当件の動画とニコニコアカウントが削除された。この際の騒動は郷内心瞳の記事を参照。
このページでは、書き起こしされた拝み屋怪談 花嫁の家の本文を掲載する。
その1(こ↑こ↓) その2
母様の家、あるいは罪作りの家 月に吠える 高鳥千草 人狼 魔声 華原雪路 月に見える 怪談 月に歌う 冤罪 守護霊 月に滅する 蠱物せる罪 生膚断・死膚断 月に潰える 己が子犯せる罪 母と子と犯せる罪 畜犯せる罪
一万分の一、あるいは十万分の一
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昔、ある人が私に、こんなことを言った。
――――拝み屋なんてのは本来、地味な仕事なんだ。
今になると、私も言い得て妙だと思う。あの頃はまだ若くて駆けだしだった から、言葉の意味に実感が持てなかったのである。
拝み屋という仕事を始めて、今年で十二年目になる。十年以上営んできた結 果、自分でも大層地味な仕事だと、今は身をもって実感することができる。
家内安全に交通安全。安産祈願に合格祈願。地鎮祭に屋敷祓い。先祖供養に 水子供養。 平素、私が手がける仕事の大半は、概ねこのような具合だ。実務自体は山も 谷もなく、依頼人から乞われるままにただひたすら、無心で拝むのが常である。
時には憑き物落としや魔祓いなどもおこなう。ただこれらも、映画や漫画の ような劇的な見せ場などはない。その内実は一から十まで終始淡々としており、平板。
こうして赤裸々に実態を開示してみると、 拝み屋という職業に対して世間が思い描くエキセントリックなイメージとは、およそかけ離れた実像が浮か びあがることと思う。
なぜ拝み屋は地味であるのか。その理由は大きくふたつあると、私は思う。 もと ひとつめに、相談客から持ちこまれる依頼そのものが、まずもって地味であるということ。先にも述べたとおり、私の許へ日々持ちこまれる依頼の大半は とう 加持祈禱に関するものである。相談客の要望にしたがい厳粛に拝めば、いずれ も事足りる簡素な用件ばかりなのだ。
そこに派手な大立ち回りなど必要ないし、必要性が生じることもない。
ふたつめに、いわゆる“怪異”や“超常現象”に対する捉え方の問題である。
然様な事象に対し、祟りや因縁、霊障といった解釈を拝み屋は軽はずみに用 いない。
拝み屋とは、依頼主の抱える不安を煽ったり、脅すことに存在意義があるの ではないからだ。むしろ「何も心配はいりません」と念を押したうえで状況を 精査し、目的に合致した拝みを粛々とあげ、事態の収束に当たるのが本来の有り様である。
よしんばそれが依頼主の気の迷いであろうと、あるいは紛うことなき“本物”であろうと、対応自体に大した違いは生じない。何事も然るべき手段を用 うゆう い、恐怖も不安も烏有に帰して、依頼主を元の日常へと帰すまでが、拝み屋として本来あるべき務めなのである。
信じられない話に聞こえるかもしれないが、それでおおよその案件は滞りな く解決を見る。ひと口に“怪異」といっても拝み屋に舞いこむそれは、やはり 地味なものが多いからだ。
以上のような理由から現実における拝み屋という生業は、おどろおどろとした非日常性や、ドラマティックな活躍などとは縁遠い、それは大層地味なものなのである。
斯様に地味で見栄えもしないこの生業を、私はこの十二年間、黙々と営んで きた。
その繰り返しと積み重ねは今後もおそらく変わることなく続くだろうし、ま た、変わってほしくないとも思う。拝み屋とは地味であるのが一番だからである。
ただ、やはりある人が昔、私にこんなことも言った。
一万分の一、あるいは十万分の一の確率で、我々は例外”にぶち当たることがある。
本書は、私の前著『拝み屋郷内 怪談始末』の掉尾を飾った「ある人形と、 花嫁の話」の全容を初めて公に開示するものである。
これまでの間、語ろうとするたび、あるいは記録に書き残そうとするたび、 様々な怪異や変事に見舞われ全容の開示をことごとく妨害され続けてきた、いわくつきの怪異譚「花嫁の家、あるいは生き人形の家」。並びに私がこれまで手がけた仕事の中でも取り分け忌まわしく、そして忘れ難き記憶にもなってし まった「母様の家、あるいは罪作りの家」。
それらをひとつに収めたのが、本書『拝み屋郷内 花嫁の家』となる。
どちらも 一万分の一、あるいは十万分の一の低確率で齎された、拝み屋 の領分として、本来有り得ざる“例外”である。
しかし、私はその例外を、この十二年間ですでに二度も経験する憂き目に遭っている。 一万分の一であろうと、十万分の一であろうと、仮にその確率が正確なもの であるならば、およそ信じ難い確率。この上ない災難と言って差し支えのない 確率だろう。
だからこそ私は頑なに、かくあるべきだと繰り返して言いたいのである。
拝み屋とは本来、地味な仕事だと。
地味な仕事だからこそ、請け負う依頼も一様に地味であるべきなのだと。
己が身をもって、“その例外”の峻烈さを体感し、からくも生還を果たした 今、次は決して来ませんようにと、心から切望してやまないのである。
ただその一方で、満身創痍となりながらもどうにか本書を書き終えた今、私は得も知れぬ不穏な予感に切々と苛まれてもいる。
またいずれ それ”はかならずやって来る――。
閉じられていたパンドラの箱を自ら再び開け直した、これは報いなのかもしれない。
甘んじて受けよう。などと言える勇気はとてもないが、それでもこれから本書を読まれるあなたにこの話を無事に届けられたことだけは、何よりの福音とも感じる。
どうぞ最後まで、つつがなくお付き合いいただければ幸いである――。
新装版の前書きに代えて
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本書の底本は、MF文庫ダ・ヴィンチから発売された『拝み屋郷内 花嫁の 家』である。
デビュー作に当たる『拝み屋郷内怪談始末』に続く「拝み屋シリーズ」の 二作目として世に出たのだが、様々な事情により、初版が市場から消えたのち は長らく絶版となっていた。「事情」の詳細については敢えて伏せる。
ただ、復刊へ向かう道筋は決して平坦なものではなかったとだけ、ここに書き留めておく。こうしてようやく新装版として同作が再び陽の目を見ることが できて、欣幸の至りである。
またいずれ“それ”はかならずやって来る――。
旧版の前書きに記した予言めいた所感は、あれから八年間の歳月を経るうち に現実と化し、拝み屋という仕事に対する私のスタンスも当時からだいぶ変わってしまった。
思えばあの後に起きた惨禍の数々は、この本を世にだした時から始まったの かもしれない。今となっては漠然とながらも、そんなふうに勘ぐる節もある。
親愛なる読者諸氏には、本書を読まれることでなんらの災いも降りかかることがないよう、切に祈るばかりである。
母様の家、あるいは罪作りの家
月に吠える【昭和五十五年秋】
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わたしが立花昭代から椚木昭代になったのは、昭和五十五年の九月。
宮城の山々に生い茂る樹々が赤や黄色に色づき始めた、季秋のある晴れた日のことでした。
わたしが契りを結んだのは椚木家の家督息子で、名を武徳といいました。 当時、二十三歳だったわたしよりも三歳年下の二十歳。 背が高く、体格も筋骨隆々として逞しいのですが、面立ちにはまだ幾分、あどけなさの残る朴訥とした印象の青年です。
武徳とわたしの出逢いは、同年の春先に設けられた見合いの席でのことでした。
三陸海岸の沖合いに浮かぶ小さな島に生まれ育ったわたしは、それまでなかなかよい縁に恵まれず、高校を卒業後も実家暮らしを続けながら、無為な日々を過ごしておりました。
寂れた孤島に暮らす身としては、出逢い自体がそもそも少ないものです。二十歳を迎えてまだ数年とはいえ、出逢いもなければ行き遅れてしまう。誰も口きにこそだしませんでしたが、そんな危惧を両親ともども、この頃には薄ぼんやりと抱き始めておりました。
そこへ本土に暮らす母方の叔母が気を利かせ、知り合いのつてを頼って引き合わせたのが、椚木家の武徳だったのです。
春先の見合いからおよそ半年間の交際期間を経て、わたしたちは一緒になりました。
婚家である椚木家は、わたしの郷里からはるか離れた山間部の小さな田舎町にありました。椚木の家はそこからさらに人里離れた、高山の中腹に代々居を構える旧家です。
大きな長屋門をくぐった先にある椚木の家は、広大な敷地の中に悠然と構え る二階建ての、それは大層立派な造りの屋敷でした。
山中の構えですので、屋敷の周囲は丈高い樹々に鬱蒼と囲まれております。 けれども土地面積が広いため、樹々のもたらす陰気が屋敷に降りかかることは一片もなく、家の中にはいつでも燦々とした陽気が射しこんでまいりました。
椚木の屋敷には、武徳の他に義母の百合子と、それぞれ十九歳と十六歳になる武徳の妹がふたりおりました。 義父は武徳が幼い頃に重い病を患って他界したと聞いております。 わたしが嫁いだ当時、椚木家は近隣一帯の地主として財を成す傍ら、自家の 敷地を使って養豚業も営んでおりました。
母家の北側に建てられた二棟の豚舎には、常時数百頭の子豚が飼育されていたようです。こちらは武徳の祖父の代から始めた家業で、武徳の代で三代目に なるとのことでした。 まだまだ年若く、右も左も分からないことだらけの武徳を支えるため、養豚業には義母と叔父も携わっておりました。叔父は亡き義父の実弟に当たる人 で、祖父の代の頃から家業に従事してきた、この道における大ベテランとのこと。
一方、わたし自身が家業に携わることは一切ありませんでした。
新婚当初、 何度か 「お手伝いしましょうか?」と武徳に尋ねたことはあります。 けれども 「人手は足りているから別に必要ない」と返され、あとはそれっきりでした。 お見合いの当初、椚木家の家業を聞かされた折、嫁げば自分も家業の働き手になるものと腹を括って構えていたのです。 そんなわたしにとって、それは幾分拍子抜けのする出来事でありました。
椚木の家族は武徳も含め、わたしにとても温かく接してくれました。
義母の百合子はわたしが嫁いだ当時、ちょうど四十路を迎えたばかり。とはいえ見た目は驚くほどに若々しく、初対面の際には歳の離れた武徳の姉と勘違いしてしまったくらいです。
気風も物腰も柳のようにしなやかで、わたしの拙い家事や嫁としての在り方などに対して、決して口うるさく文句を言う人ではありませんでした。
ふたりの義妹たちも右に同じく、どちらかと言えば控えめで大人しい性格の 娘たちでした。嫁いだばかりで何かと戸惑うことの多かったわたしを 「お義姉さん、お義姉さん」と健気に慕ってくれて、家事やらお使いやら、気づいたこ とをよく手伝ってもくれました。
然様に椚木の嫁となったわたしの暮らしは当初、それは穏やかで幸福なもの だったのです。ところがそうした平穏無事な新婚生活は、決して長くは続きませんでした。
嫁いでほどなくした頃のことです。
深夜二時近くでした。
床に入って寝ていたわたしの耳に突如、鼓膜を打ち震わすような大絶叫が届きました。 はっとなって布団から飛び起きると、寝室の外で獣たちの甲高い咆哮が轟いておりました。それはまるで谷底へ投げこまれる女の悲鳴のような、身の毛もよだつ恐ろしい声でした。
声の主は数頭などという生易しいものではなく、何十頭もいるように聞こえました。 初め、わたしはそれを野犬の遠吠えだと思っていました。ですが震えながら 声を聞くうち、しだいに自信がなくなってしまいます。
得体の知れない獣たちの咆哮は異様に長く、 また、息継ぎさえもしていない ようなのです。 故郷の島でも犬の遠吠えは耳にしたことがあります。けれども 戸外に鳴り響く甲高い叫びは、それとは全く異質なものでした。
声はどうやら、屋敷の周囲を遠巻きにぐるぐると周回するように移動してい るようでした。 窓外の左側から近づいてくると右側へ遠ざかり、それからまた 左のほうから聞こえてきます。
慄きに耐えかね、武徳に縋りつきたい気持ちになりましたが、この夜、武徳は産気づいた母豚の分娩のため、豚舎で夜明かしをしており、寝室にはおりませんでした。
独りで身を強張らせながら布団の中でがたがたと震えるしかありません。 それほどまでに戸外に猛る声の響きは禍々しく、わたしの身を竦ませるものだっ たのです。
それから何十分が過ぎた頃でしょうか。 初めのうちは怖じ気に身を震わせる ばかりだったわたしも、しばらく声を聞き続けるにしたがい、少しずつ気持ち が落ち着いてきました。
一体、この声の主はなんなのだろう。
未だ高鳴る胸の鼓動に動揺しながらも、声の主を知りたいという衝動に駆られたのです。
意を決すると固唾を呑みつつ布団を抜けだし、窓際のカーテンまで忍び足で歩み寄ります。 分厚い布地の端に指を差しこみ、細く開いた隙間から戸外の闇を覗きこみました。
空には月がかかっているようで、窓の向こうに広々とした庭の様子が薄っすらと見えます。声はちょうど母家の裏側を回り、寝室がある西側へと近づいてくるところでした。
ぶるぶると震える指に力をこめ、カーテンの端を押さえつつ戸外の闇に目を 凝らします。 それが目の前に現れたとたん、わたしの口から「きゃっ!」と短 い悲鳴があがりました。
月明かりの下で蠢いていたのは、四本脚でのそのそと歩く、気味の悪い獣たちの姿でした。
果たしてわたしが頭で思い描いていたとおり、数はざっと見積もっても三十 頭から四十頭。それらがぞろぞろと長い行列を作って屋敷の庭内を悠然と闊歩し、尖った鼻先を月に向けて夜空を仰ぎながら、身の毛もよだつ遠吠えをあちこちであげていたのです。
獣たちは身体の作りや大きさこそ犬に似ておりましたが、決して犬ではありませんでした。
たとえば流星のようになだらかな軌跡を描き、凹凸のほとんど見受けられない細長い鼻面。同じく、胴の下から伸びる長くて太い四本の脚。そして、ふさりと毛の膨らんだ太い尻尾。
黒々としたその輪郭は、わたしの目には犬というよりはむしろ、狼のように映りました。 ただし、仔細が分かるのはそこまでで、あとは杳として知れません。なぜな ら獣の身体は、月の光にさらされてもなお、真っ黒なのです。 その身の黒さはどこまでも深く、持ち主から分離した影のみが勝手に歩き回っているような印象を心に強く抱かせました。 こうこう
一方、獣たちの眼は満月のように丸く、強い黄色みを帯びて煌々と輝いておりました。
けれどもその眼は、月明かりに反射して輝いているのではありません。まるで頭の内側に発光源でもあるかのように、眼それ自体が強烈な閃光を放ち、 燦然と輝いているのです。
然様に獣たちの姿と声音は、とてもこの世のものとは思えない異様なもので 幸いにも獣たちはわたしの視線に気づく気配すらなく、寝室の前を横切っていきました。
すっかり肝を潰してしまったわたしは、戸外を覗いてしまったことを心底後悔しながら、力を失くした足をどうにか動かし、布団へ戻りました。
しかし、その後も声は一向にやむ気配がありませんでした。
わたしが布団に戻ってからも、獣たちはなおもけたたましい遠吠えを辺りに響かせなから、家の周囲をぐるぐると回り続けたのです。
もはや生きた心地もありませんでした。 わたしは布団の中で縮まってがたが たと震え続け、そのうち意識を失ってしまいました。
翌朝、わたしは朝食の席で、家族にさっそくこの話を打ち明けました。
「昨夜はすごく恐かったです。 あの声の主は一体、なんなのですか?」
青い顔をしながら昨夜の状況を事細やかに伝え、朝食に集まった皆からの返 答を待ちます。ところが家族一同から返ってきた言葉に、わたしは思わず耳を 疑ってしまいました。
「そんな声は聞いていないし、今まで聞いたこともない」
武徳も義母も、ふたりの義妹も、口を揃えてこのように答えたのです。
嘘だと思いました。とても信じられない気持ちでした。
何しろ昨晩、庭一面に木霊したあの声は、鼓膜を震わすほどの大絶叫なのです。 それに時間も短いものではありません。わたしが声に驚き、目を覚ましてから優に三十分。布団に戻って意識を失うまでも、さらに三十分近くは吠え続けていたと記憶しております。
「昭代さん、きっと悪い夢でも見たんでしょう」
けれども、わたしを慰める義母の微笑に、嘘やごまかしの色は見受けられませんでした。 「お義姉さん、環境が変わって疲れが出たのよ、きっと」
ふたりの義妹もそう言って、わたしを優しく労わってくれました。
武徳からもらった言葉も、ほぼ異口同音のものでした。
別段、それで家族に対して不信感を覚えたとか、そういうことではありません。
ですが――それでもです。
あの声がわたし以外の誰の耳にも届かなかったなど、やはり信じ難いものがありました。
ただ、内心そうは思えど、やみくもに片意地を張るのも見苦しいものです。 家族の返答に渋々うなずき、わたしはこの話題を切りあげることにしたのです。
納得できる解釈ではなかったのですが、それでも時間が経つと徐々に怖さも薄まってゆき、日にちが経つと記憶もだんだんぼやけてまいりました。
やはり義母の言うとおり、悪い夢でも見たのだろう。
然様に割り切り、一時は忘れかけもしたのです。
ところがそれから二週間後の深夜、わたしは再びあの不気味な声に目を覚ましました。
鳴き声も、家の周囲をぐるぐると回るあの動き方も、前回と寸分違わず同じでした。
この時はあまりにも恐ろしく、再び戸外の様子を覗き見ることなどできませんでした。
忘れかけていた記憶を引きずりだされ、背筋にひんやりと冷たい汗が滲みます。
この晩も武徳は、母豚の分娩でわたしの隣にはおりませんでした。
ですからわたしは、電気の消えた暗い寝室で、またも独りきりです。
為す術もないわたしは、再び慄きながら気を失うまで、布団の中で震え続けたのです。
翌朝も家族に話しましたが、答えは以前と全く同じものでした。
ただ、さすがに二度目ともなると、「夢を見た」では、もはや納得がいきません。家族に疑いの目を向けるのはよくないことと思いつつも、ひょっとしたらみんなで何か、わたしに話せない隠しごとでもしているのではないか。
そのような勘繰りも、思わず生じてしまうほどでした。
声はその後も不定期に轟いては、眠るわたしを揺さぶり起こし、そのたび戦慄させました。
地の底から鳴り響く魔性の猛りのような、奈落の底へ突き落とされる女の悲鳴のような、ひたすら不吉で、禍々しい咆哮。
椚木の家に嫁いでわずか数ヶ月。 こんなはずではなかったのです――。
夜な夜な耳元に届く得体の知れない不気味な咆哮。 家族の誰とも共有できない不安と恐怖。
胸に想い描いた幸福な新婚生活は、わずか数ヶ月のうちにもろもろと崩れ去り、代わりにあの獣たちと同じ、黒々とした情動がわたしの胸中にどろどろと 渦を巻くようになりました。
本当に、こんなはずではなかったのです ――。
高鳥千草 【平成十七年六月四日】
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初夏だというのに異様に肌寒い、梅雨入り前の夜だった。
その日は早朝から天上が頻りにぐずつき、粘り気を帯びた冷たく細い雨がし ょぼしょぼと一日じゅう、降ったりやんだりを繰り返していた。 い女が訪れた。
とうに日付を跨いだ、深夜二時過ぎのことである。私の仕事場にひとりの若い女が訪れた。
名を高鳥千草という。
年頃は二十代前半。服装は上下灰色のスウェット姿。栗色に染めた長い髪の 毛はほつれてぼさぼさ。少々浮腫んで腫れぼったくなった顔は、すっぴんのままである。
いかにも今しがた布団から飛び起きて、着の身着のままやってきたという風情だった。
平成十七年当時、私は二十六歳。拝み屋を始め、まだわずか三年目の駆けだしだった。
住まいは宮城の片田舎に居を構える実家。仕事場は実家の西側に位置する八畳一間の離れ。そこに祭壇一式を祀り、相談客からの依頼を日々請け負っていた。
基本的に仕事は日中のみとしていた。けれども特異な仕事柄、時折このようにして深夜に緊急の相談が舞いこむこともあり、そんな時には例外的に門戸を開くようにもしていた。 「今さっき、あたしの家でとんでもないことが起きたんです! あたし怖いんです!」 蒼ざめた顔をくしゃくしゃに歪ませ、千草は今にも泣きだしそうな声で訴えた。
三十分ほど前、千草から電話で対面相談の申し入れがあった。
電話口での第一声も、概ね似たような感じだったと記憶している。
素性を含め、現状の説明すらもほぼないまま、千草は神速の勢いで私の仕事場へと参じた。
仕事場の中央に設えた座卓を挟んで、私と千草は対面している。外からは しょぼしょぼと頻降る小雨の鬱陶しい水音が、耳朶にまとわりつくように届いてきた。
「一体、何があったんですか?」
「怖い」と叫ばれても、くわしい事情を聞かぬことには、なんらの対応もしようがない。 詳細な返答を待つべく、そのまま黙って千草の顔を覗きこむ。
「もしかして来るかも来るかも、とは思ってたんだけど、やっぱり来たんです。あいつ」 寝起きで萎れた目蓋をひくひくと引き攣らせながら、千草は震え声で語り始めた。
つい先刻の深夜一時頃。千草が床に就いてまもなくのことだったという。
千草は自宅の裏庭に面した寝室で幼い娘と眠っていた。うとうとと微睡み始めたところで、ふと自分の両脚に違和感を覚え、千草は目を開けた。
誰かが、自分の両脛を握っている。そんな感触を覚えたのだという。
眠気で薄惚けた頭は最初、それを娘の仕業と判じた。
だが、隣を見ると娘はすやすやと寝息を立てて眠っている。
どきりと胸が高鳴った瞬間、身体が布団の中へ向かってずるずると勝手にさがり始めた。
何かが自分の脚をつかんで、布団の中に引きずりこんでいる。
敷布の上を背中が滑る感覚に、否が応でもそう思わざるを得なかった。
一方、布団の中にいるであろう何かは、その間にも千草の両脚をなおも執拗に引き続ける。
恐怖と焦りにとうとう堪え切れなくなり、意を決してがばりと布団を捲りあげた。
露になった足元を見たとたん、千草の口からありったけの大絶叫が絞りだされる。
目の前では、春先に死んだはずの母親がにやにやと不気味な薄笑いを浮かべ、千草の脛に蒼ざめた両手を絡みつかせていた。
そのあとのことはあまりくわしく覚えていないという。
気がつくと千草は自宅を飛びだし、近所のコンビニの駐車場に車を滑りこませていた。
帰宅しようにも、まだ母親が家の中にいたらと思うと、とても帰る気になどなれない。
恐怖と不安に駆られながら薄暗い車内を当てもなく見回すさなか、助手席の 足元に転がる携帯電話に目が留まった。家を飛びだす際、無意識のうちに引っ掴んできたらしい。さっそく震える指で友人、知人の番号を手当たり次第にコールした。
言わずもがな、このような事態に対応できる人物を尋ねるためである。 八人目に掛けた友人が、たまさか私のことを知っていたのだという。名前を訊いてみると、確かに以前、我が家へ相談に来たことがある若い女性客だった。
友人との通話を終えたあと、千草は即座に私の番号に発信した。
当人が語るところによれば、ここまでが現在に至るまでのおおよその流れである。
「こういう経験は初めてのことですか?」
尋ねた私に千草は「違います」と答えた。
「あたし、小っちゃい頃から“視える”体質なんです。今でもヘンなものを視 ること自体は別に珍しくないのね。でも、今夜のは違う。あれは違うの。別格 なんです」
がちがちと歯の根を震わせながら、千草が私の顔を縋りつくような目つきで覗きこむ。
「相手が、亡くなったお母さんだからですか?」
「お母さんじゃなくて、母親です」 とたんにむっとした顔になり、千草が私の言葉を訂正する。
「別格とは、どういう意味です?」
「だってあいつ、多分あたしを殺す気だもん」
がたつく声で言い終えると、千草はぶるりと首筋を震わせた。
話がまるで見えてこない。 千草が過剰に怯えているのは、一瞥しただけで容易に察しがつく。問題は千 草が亡き母を指してなぜ「別格」などと称し、ここまで怯えているのか、という点である。
厄介なことにいくら問いただしても、千草の返答はまるで要領を得ないものばかりだった。
私が母親に関して何を尋ねても、千草は怯えながら「どうしよう、どうしよう・・・・・・」などとしきりに頭を掻きむしるばかりで、明確な回答は何ひとつとして得られない。
千草の様子を鑑みるに、あまりせっかちに話を進めるのも忍びないものが 当人がもう少し落ち着くまで時間を置こうと思い、目の前の座卓に視線を落とす。
卓上には千草の氏名や住所などを書き記した紙が、クリップボードに挟まれ置かれていた。相談開始時、ほとんど形式的に依頼主に書いてもらう問診表のようなものである。 クリップボードごと両手で持ちあげ、時間潰しに目をとおす。
千草は昭和五十七年生まれの二十三歳。住所は私の地元からほど近い、某市の郊外にある。
紙には千草の名前の下に、もうひとつ名前が書かれていた。生年月日を見る と、まだ四歳。年齢から推し量って千草の幼い娘だと判じる。
「住所を見ると一戸建てみたいですが、実家住まいなんですか?」
「違います、持家。住み始めてもう四年ぐらいになるかな」
「そうですか。じゃあ今現在、ご家族は高鳥さんと娘さんだけ?」
「そう。去年日旦那と別れたから、今はあたしと美月のふたりで暮らしてんの」
と、そこへ突然、何かとてつもない違和感を覚える自分がいた。
初め、違和感の正体がなんなのか分からなかった。が、千草が私の仕事場を 訪れるまでの経緯をひとつずつ思いだしていくにしたがい、ようやくはっとなって蒼ざめる。
「娘さん、今誰に見てもらってるんですか?」
そこで千草も「あああっ!」と悲痛な叫びをあげることになった。
数十分後、私は千草の運転する車に先導され、彼女の自宅を訪ねる羽目になっていた。
当初、一刻でも早く家に帰って娘の安否を確認するようにと勧めた。だが、千草は梃子でもその場を動かず、決して首を縦に振ろうとはしなかった。
理由は言わずもがな、千草が心底怯える、件の亡き母親の存在である。
「あいつがまだ家の中にいるかと思うと、とても独りでなんか帰れない・・・・・・」
再び怯え始めた千草に哀願され、不本意ながらも同行することになったのである。
千草の自宅は、郊外の住宅地に立つ古びた二階建ての木造家屋だった。
布団から飛び起き、そのまま逃げだしてきたからだろう。家の明かりはひとつ残らず消え、外から見ると真っ暗である。
「どうぞ」と促されるままに玄関ドアをくぐる。
鍵すら掛けていなかったようで、ドアは千草の手で簡単に開かれた。
「美月! ママ、帰ったよお、美月!」
寝室があるとおぼしき家の奥へと向かって千草が叫んだ。だが、娘からの反応はない。
「ごめん、先に行ってくれる? あたし、先に行くの絶対ムリだ」
その場でひらりと身をひるがえすなり、千草が私の背後にぴたりと貼りついた。
「廊下をまっすぐ行って、突き当たりだから」
示されるまま、暗い廊下を渋々渡り始める。
空調でもついているのか、家のどこからか、ぶんぶんと乾いた音が断続的に聞こえてくる。それ以外は音ひとつなく、家の中は水を打ったようにしんと静まり返っていた。
廊下の突き当たりに達し、建てつけの悪いドアをぎぃと開ける。寝室には夏布団の乱れた寝床が一組あるだけで、千草の語る母親はおろか、娘の姿もない。
「いないみたいですよ。目が覚めてどこかに行ったんじゃないですか?」
心当たりはないかと尋ねると千草はさっと踵を返し、再び娘の名前を叫びながら家の中を歩き始めた。私も後を追いかけ、娘の名前を一緒に叫ぶ。私もあとを追いかけ、娘の名前を一緒に叫ぶ。
その間にもぶんぶんぶんぶんと、乾いた音が聞こえ続けていた。廊下の両側に面した扉を重に開け、中の様子をうかがう。トイレと風呂も動いてみたが、 娘の姿は見つからない。
玄関口に近い廊下の片隅には、磨りガラスの嵌められた引き戸があった。家 の間取りから考えて、どうやら中は台所であるらしい。
何気なく戸を開けてみたとき、ぶんぶんとというあの音が桁違いに大きくなった。
戸口に開いた隙間から中を覗きこむなり、ぎょっとなって声があがる。
暗闇に染まった台所の隅、ぶんぶんと鳴っていた大きな物体が飛び回っていた。
物体は水平に円を描きつつ、拳大の真っ白な球体を立てながら物凄い速さで回転している。球体は蛍光灯のごとく輝いていたが、周囲に光は撒かれず、球 のみが鮮烈に煌めいていた。
「美月!」
背後にいた千草が私を押し除け、暗闇の中へ飛びこんでいく。
派手に回転する球体の真下をやり過ごすと、幼い女の子の姿があった。台所の床にへたりこみ、とろんとした目でこちらを見つめている。所在が不明だった千草の娘である。
娘の身体を下からさらそうように抱えあげ、千草が蛍光灯の引き紐を引いた。
とたんに静寂。
けたたましい鳴りのついた台所はしんと静まり返り、白い球体も消えてしまった。
「今の、なんなんですか……?」
声を上げてから、千草が尋ねてきた。 声を発した自分の唇は、わななわなと震えていた。
「あれはとりあえず大丈夫。それより先生。どう? 家の中に何か感じる?」
娘を抱きかかえながら、千草が尋ねてきた。
威嚇を感じるどころではない。正直なところこれ以上、関わり合いになりたくなかった。
あれはとりあえず大丈夫。
確かに千草はそう言った。
ならば彼女にも、あの気味の悪い人魂のような物体が見えていたということになる。
何かが「大丈夫」なのだと思う。
何が、「とりあえず」なのだろう。
自分の家の台所の得体の知れない球体が飛んでいたのだ。そんなものを目の当たりにして平然としている彼女の神経が、私には全くと言っていいほど 理解できなかった。
加えて娘の件である。
いくら非常時とは言え、この女は夜中に自分の娘を放っぽりだして家から飛びだしたのだ。たまたま大事に至らなかったとはいえ、非常識にも程がある。
母親としての資質はもちろん、人としての有り様まで疑わざるを得なかった。
「あたしの母親、もういない。もううんざり。違う。絶対にいる。仮に今はこの家 にいなくても、あいつはまた絶対に 来る。ねえ、どうしたらいい? あたし、 どうしたらいいかな……?」
じりじりとした眼差しで千草が私に質問を重ねる。
寝起きで浮腫みの残った頬は土気色に染まり、眼窩の回りも鬱血したように 黒ずんでいた。ひくひくと震える瞳に、逆に色を滲ませるものに見えたらいけないと尋ねるこの女のほうが、私にはむしろこの世ならざるものに見えた。
暗闇のような面貌も含め、奇妙な言動や来に対する無責任な振る舞い。それらのいずれも私にはおよそ接し難いものばかりである 。「どうしたらいい?」 という簡素な質問でさえ、異界の生物と交信させられているような錯覚を覚えた。
一刻も早くこの場を立ち去りたい 。私の心は、すでに大きく後退していた。
どうしたものかと戸惑うなか、持参した鞄の中に御札が何枚か入っていたことを思いだす。なんとかこれで手打ってもらおうと考える。
「差し当たって簡単なお祓いと、それから魔除けの御札を何枚か置いていきます」。
あんなものが飛び回る家で自信も保証も実のところ全くない。だが、御札自体は紛い物ではなく、一応は正しい作法と手順に則って製作したものである。
娘の無事を確認されたし、千草が怯える亡き母親も姿が見えない。逆に私自身が躊躇した白い人魂については、千草自身が「大丈夫」なのだと言っている。ならばもう、私がこの家にいる理由はないはずである。
その後、居間を借りて死霊祓いの祝詞をあげた。同じく、千草に使い方を説 明したうえで自宅の壁に貼りつける魔除けの御札を数枚と、携帯用の御守りを 娘のふたり分手渡した。
これで私が拝み屋としてできることは、全て果たしたものと了解する。
かし これしか私の意思としては、千草のほうはそれでも私にまだ居食い下がる気がした。
「うん、使い方は分かった。けどさあ、もし万が一、あいつがまた化けて出て きちゃったら、どうしたらいいかな? その時はまた、郷内先生にお願いしてもいい?」
受け取った御札を物珍しげに見つめながら、千草は今後の相談の継続を求めた。
「私にできること はこれで精一杯 です。今後、もしまた何か不測の事態が発生したとしても、それは私の手には負えないということで。本当に申しわけないのですが」
自分にできないことはできないと明確に断るのが、私の信条である。
ただし、この場の異様な状況においては少々事情が異なった。そんな建前などどうでもよく、最も外聞もなく、最も外聞もなにもなくやり捨てて、一刻も早く彼女から逃げ去りたいと いう気持ちのほうが強かった。
「そんなこと言わないで。あたし、こっち関係で知ってる人なんか、他に誰も いないんだよ。お願い。先生だけが頼りなの。また何かあったら駆けつけつけてよ」
いつの間にかすっかいタメ口になってるのに気になったが、それ以上に厄介なのが私の理屈が千草にまったく通じていなかったということだった。
「お願いされても、これが私にできる限界ですよ。同業でしたら他にも有能な方が、たくさんいらっしゃいますし、誰か他の方を探していただいた方がよろしいかと思います。」 「そっかあ・・・・・・。じゃあさ、郷内先生が知ってる拝み屋さんを紹介してよ。お師匠さんとか、そういう人はいないの? そういう人なら郷内先生よりも力が あるんでしょ?」
千草の不躾な要求に一瞬、水谷源流の名が脳裏をよぎった。
永谷さんは明確な師弟関係にあるわけではないが、師匠筋と言えばそう言えなくはない間柄である。彼は拝み屋を始めた当初から付き合いがあり、この稼業におけるイロハをあれやこれやと教示してもらってもいた。
いっそのこと、水谷さんの連絡先を教えて丸投げにしてしまおうかと考えた。
だが、すんでのところで思いとどまった。
齢60を超える永谷さんはこうした礼儀を知らない人に対して大層厳しい御方である。千草のような女が相談へむっかい、迂闊な態度を叩いたりすれば烈火のごとく怒り出すはずである。
それに加えて、私が千草に水谷さんを紹介したことが発覚したあかつきには、私の頭にも雷が落ちることになるだろう。悲惨な結果は、どちらも容易に想像することができた。 「いや、残念ながら私は支障を持っていませんし、他に同業で知っている人もいないんです。お役に立てず申し訳ありません」
実は同業の知り合いは、他にももうひとりいた。だが、あちらははあちらで何かと面倒くさく、灰汁の強い人物だったので、やっぱり口を噤むことにした。
「ふぃん、そうなんだ。じゃあ、やっぱり郷内先生に頼るしかないわけね?」
私の顔を一頻りしげしげと眺めまわしたあと、千草は感心したかのように両手をぽんと叩き、「よろしくお願いします!」と頭を下げた。
ぼさぼさにほつれた千草の髪を見おろしながら、私は終始うんざりとした気持ちになる。
この晩の異常な一幕が、私と高鳥千草の長いようで短い付き合いの始まりとなった。
人狼【平成十七年六月十八日】
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造園業を営む皆川さんから、こんな相談をいただいた。
高校二年生になる娘の美緒さんが近頃、妙なものを目撃するようになったのだという。
「最初は夢かと思っていたんですけど、日に日に自信がなくなってしまって・・・ ・・・。今はもう夢じゃないってはっきり断言できるんです。ただそうなると、 じゃあ自分が見ているものは一体なんなのかって・・・・・・すごく怖くなってしまうんです。」
蒼ざめた顔色ですっかり憔悴した様子の美緒さんは、ぽつりぽつりと現状を語り始めた。
始まりはおよそひと月半前。五月の連休が終わってまもなくの頃だったという。
深夜、二階の自室で眠っていると、突然、胸を押し潰されるような息苦しさで目が覚めた。
枕元に置いた目覚まし時計の針を見やれば、時刻は午前三時過ぎ。窓の外ではさらさらと、小雨の降りしきる音が静かに木霊していた。
額に指先を当てると、熱気を帯びた汗が玉のように噴き出ていた。呼吸もひどく息苦しい。悪い夢でも見たのかと思ったが、記憶になかった。
しばらく布団の上で深呼吸をしていると、しだいに気息が和らぎ、気分も落ち着いてきた。
頃合いを見計らい、再び布団へ潜ろうとしたが、気づけば口の中がからからに乾いていた。仕方なく布団から起きあがり、階下へ水を飲みにおりようとする。
その時だった。
前庭に面した窓ガラスの向こうに、ふと何かの気配を感じたのだという。
「別に物音がしたとか、何かが動いているのが見えたとか、そういうことは一切ないんです。そもそも夜中ですから、窓にはカーテンを引いているし、外の 景色なんか見えないんですね。でも絶対、外に何かいる。理屈とかじゃなく、 そんな気がしてぞわぞわしてしまったんです。だから今思い返すと、あれは気配というより・・・・・・」
厭な予感。あるいは胸騒ぎだったという。
薄いカーテンに閉ざされた窓の向こうの闇が、なぜだかとびきり不穏なものに感じられた。
本当は見たくなどなかった。見たらきっと、何かよくないことが起きる。
そんな思いをまざまざと感じた。だが、このまま見ずにいることもできなかった。
窓の向こうに何がいるのか。確認しないと怖くて寝られそうになかったのである。
乾いた口中に唾液を湧かせ、喉の奥へ押しこむと、静かな足取りで窓際まで めく 近づいていく。カーテンの端を細く捲りあげ、美緒さんは眼下に広がる前庭を のぞ 恐る恐る覗きこんだ。
月明かりに薄く照らされ、墨絵のように茫漠とした前庭の向こうに、それはいた。
家の門口に、黒い人影が立っていた。
背恰好から察すると、どうやらそれは男のようだった。体格は小柄でほっそりしているが、骨格はがっしりとしており、一目するなり男だと分かった。
ただなか 皆川さんの自宅は田園地帯の只中にある。自宅の前は道幅の狭い一本道の まっすぐな農道。夜間は車通りが極端に少なく、両隣に位置する隣家もそれぞ れ数十メートルほど離れている。夜中に人が歩くような道ではなかった。
男はどうやら、美緒さんの部屋の窓を無言でじっと見あげているようだった。
身体はびくりとも動かず、暗闇に捺された判のごとく固まっている。
そのまま数分ほど黙って様子を見つめ続けたのだが、やはり微動だにすることもなかった。しだいに張り詰めていた緊張も、ガスが抜けるように萎み始める。
「人の形を模した立て看板とか、マネキンとか、そういうものかなって思ったんですよね。だって少しも動かないし。もしかしたら誰かがイタズラで置いたんじゃないかなって――。とにかく生きている人じゃないって割り切ると、なんだか急に拍子抜けしちゃって」
ためしに窓を開けて手を振ってみたのだという。
だが、それでも男の身体はびくりともしなかった。
美緒さんはそのまま階下へおりて水を飲むと、布団に戻って眠りに就いた。
ところが翌朝、目覚めて二階の窓から門口を見ると、そんな人形などどこにもなかった。
家族にそれとなく尋ねてもみたが、誰もそんなものなど知らないという。
なんだか昨夜の不穏な感覚を思いだし、再び少し厭な気分になる。
しかし、朝食を食べ終え自転車で登校する頃には、すっかり忘れてしまったのだという。
それから二週間ほどが過ぎた、五月下旬の夜だった。
深夜三時過ぎ、再び美緒さんは胸を押し潰されるような感覚を覚えて目を覚ました。
額には玉のような汗が浮き、吐く息もぜえぜえと荒く、息苦しい。
おまけに窓へと視線を向ければ、とたんに強烈な不安を感じる。
もはや完全に忘却していた、それは二週間前の焼き直しだった。
理由も分からないというのに鼓動は急速に跳ねあがり、背筋からは冷たい汗が噴きだして、身体はすっかり怯えきっている。
にもかかわらず、カーテンを捲って外の様子を覗きたいという衝動にも駆られた。
すうすうと鼻で荒い息を整えながら、震える指でカーテンの裾をそっと捲りあげる。
細く開いたカーテンの隙間に顔を近づけるなり、短い悲鳴があがった。
前回と同じく、月明かりに照らされた戸外に男がぬっと立ち尽くしていた。
しかし場所は違っていた。今度は門口ではなく前庭に植えられた黒松の前に男はいる。
窓からの距離は六メートルほど。今度は男の輪郭もはっきりと見えた。
男の頭部は、けだもののそれだった。
頭の上にいきり立つ、ふたつの大きな耳。月明かりに反射して爛々と輝く、大きく丸い瞳。顔面の下半分から突きだした長い口吻。その先についた逆三角 形の黒い鼻。
口は耳元辺りまで裂け、剥きだしになった唇の間からは、鋭い歯が並んでいるのが見える。
狼だ。
男の顔を見た瞬間、美緒さんは直感でそう思った。
人の身体に狼の頭を持つその異形は、前回と同じく美緒さんの自室を見あげ て立っていた。相変わらずその場を動く気配こそなかったが、今度は人形などではないと、すぐに分かった。
捲れあがった唇がわなわなと震えているのが、はっきりと見えたからである。
狼らしき怪物と目が合ってまもなく、美緒さんはふつりと意識を失ってしまった。
翌朝、目覚めると美緒さんは、窓際の畳の上に倒れこんでいた。
昨夜のことは全て夢だと、慄く心を強引にねじ伏せようと試みる。けれども無駄だった。
昨夜見た光景はあまりにも生々しく、記憶に深々と刻みこまれていた。
その夜から、自室で眠ることが堪らなく恐ろしいものになった。
両親に相談し、散々からかわれながらも、寝起きを共にする生活がしばらく続いた。
それほどまでに二階の窓から垣間見た狼の姿は、ただならぬ恐ろしさがあったという。
結局、美緒さんはひと月ほど、両親の寝室で布団を並べて眠った。
幸い、夜中に目覚めることはこの間、一度もなかったという。
不安が消えたわけではなかったが、そのうちこのままではいけないと思うようにもなった。時期を慎重に見計らい、美緒さんは意を決して再び自室で眠ることにした。
「それが間違いでした。あいつ、わたしの知らない間にもっと近づいてきていたんです」
自室へ戻ったその晩、美緒さんはさっそく件の息苦しさを覚えて目覚めることになった。
もはや庭の様子など見たくもないのだが、見なければ見ないで、それもまた 恐ろしかった。頭の中では不穏なイメージばかりが増幅され、居ても立ってもいられない。
ほとんど泣き顔になりながら、恐る恐るカーテンの裾を捲りあげた。
いた。それも今度は、玄関の前にいた。 狼は玄関扉の前に直立し、無言で美緒さんを見あげ、口から鋭い牙を剥いていた。
「今度は家の中に入ってくる。娘はすっかり怯えきっています。救けていただけませんか」
「もうどうしたらいいのか分かんないです! お願いします、救けてください!」
皆川親子は口を揃えて私に訴えた。
不穏な予感を感じつつも、私は怯える父娘に安全祈願と魔祓いの拝みをあげらせた。
魔声 【平成十七年六月二十日】
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「もお、ほんっとにほんとに大変だったんですよぉ? どうか真也くんが大人しくなるよう、しっかりお祈りしてあげてくださいねっ!」
雨あがりの空にうっすらと夕陽が射しこみ始めた、その日の午後遅く。
私の仕事場を訪れた四十代前半の母親は、年頃に不相応な甘ったるい声を囀らせた。
芹沢千恵子というこの女は、声ばかりでなく、その装いも年代に不相応なも栗茶色に染めた髪の毛を肩口で丸くカールさせ、目にはマスカラ、頬には薄桃色のチーク。ぽってりとした唇は、剥かれた甘海老のようにぷりぷりと濡れ光っている。
服装は純白のブラウスに、膝上二十センチはあろうかと思うほどのマイクロミニスカート。多分に扇情的な装いではあったが、四十を過ぎた女のする恰好ではないと思った。
服装もさることながら、本人の口から飛びだした依頼内容もまた、奇抜なものだった。
なんでも、今年二十一歳になる息子が、親戚の人間の鼓膜を突き破ったのだという。 依頼内容は言うまでもなく、この息子の素行をどうにかしてほしいというも のである。
あまりにも突拍子もない相談だったので、一から順にくわしい経緯を尋ねてみた。
千恵子の一人息子・芹沢真也は、地元の高校を卒業後、定職にもつかず現在 無職。父親は真也が幼い頃に他界しているため、現在は千恵子とふたりで暮ら しているのだという。
先週の土曜日。この真也が、千恵子の祖父の三男坊が興した分家へ泊まりに出掛けた。
続柄を考えるに、遠縁といえば遠縁の間柄である。しかし、この分家の俊樹 なる孫息子が高校時代、たまさか真也と同じクラスの生徒だった。以来、高校 卒業後も細々と交流が続き、真也は俊樹の家へたびたび出入りするようになっていた。
事件が起きたのは、深夜一時過ぎのことだった。
夜の静寂を突如として引き裂く凄まじい大絶叫と、窓ガラスが割れる音。
続いて、庭先にずん! と響いた鈍い音の三連奏で、分家の家族が一斉に目を覚ました。慌てて庭先へ飛びだすと、ガラスの破片まみれになって横たわ る、俊樹の無惨な姿があった。
俊樹の部屋は玄関側に面した二階の一室にある。家族が見あげると窓ガラス が粉々に割れ、中から真也が笑みを浮かべて、地面に落ちた俊樹の姿を見おろ していたのだという。
「すぐに分家から電話があって、急いで病院に行ったんですう。幸い、二階から落ちたのに俊くんの身体は軽い打ち身だけの軽傷でした。でも、問題は鼓膜 のほうだったんですぅ」
精密検査の結果、俊樹の右耳の鼓膜が破れていることが発覚する。どう考えても落下時の衝撃で負った傷ではなかった。
前述のとおり、真也の仕業によるものである。千恵子はその場で分家の両親に土下座をし、今後一切、真也を家に出入りさせないという条件つきでどうに か示談にこぎつけた。
「どうしてそんなことになったのです?」という問いに、千恵子はこんな答えを返してきた。 「真也くんはぁ、俊くんの霊感というかぁ、資質のようなものをためしたんですぅ」
一瞬、異国の言葉を聞かされたようで、頭の動きが少し止まった。
「それと再従兄弟の鼓膜を突き破るのが、どう繋がるんです?」
「・・・・・・波動をこめた声を頭に吹きこんでぇ、霊力を見極めるんだそうですぅ」
どことなく誇らしげな調子で語った千恵子の説明を要約すると、こうである。
真也は生まれながらに強い霊力を持つ子供だった。常人には感知できない浮遊霊や地縛霊、守護霊などがはっきりと視え、時には神仏の姿まで垣間見ることさえある。
また、虫の知らせや地震の予知などもたびたび的中させ、他にも占いや加持祈禱の技術も日夜研鑽している。将来は霊能者として世の悪を是正するのが目標なのだという。
ただし、ひとりでそれを遂行するには、何かと前に立ち塞がる障害も多い。 そこで真也は、自身の霊力と波長の合う同志、ないしは配下になる者を求め始めた。
他人が持つ霊力の素地を見極めるのは、簡単なテストをおこなうだけでよい。
真也が身の内に秘める潤沢な霊力を肺の中に充填し、絶叫に乗せて対象者の耳に吹きこむ。テストに合格した者は、真也の目を通して全身から黄金色のオーラが噴きだして見える。
一方、不合格だった者は例外なく鼓膜が破れ、精神と肉体に多大な損傷を負うのだという。今までテストに合格した者は、ほとんどいないとのことだった。
なかったのか。聞いていて、ほとほと呆れる話である。他にはなんの感想も浮かばない。
「真也くんとしてはぁ、とにかく少しでも早く、霊能者として活躍したいらしいんですねえ。でもそれを実現するためにはぁ、優秀なお仲間とか、真也くん の仕事をサポートしてくれるお弟子さんもたくさん必要らしいんですう。だか ら真也くん、多分ちょっと焦っちゃってえ、俊くんにテストをしたんじゃないかと思うんですよぉ」
話の論点が壊滅的にずれてきている。
確か、この母親はこうした息子の愚行をやめさせるべく、訪ねてきたのではないか。
それに千恵子の話を聞いていて、さらに気になる点がもうひとつ表出した。
「テストしてるっておっしゃいましたけど、もしかして今回が初めてじゃないんですか?」
「はい、そうなんですう。できればやめてほしいんですけど、もう全然聞いてくれなくって、ほんっと困ってるんですう。それで何か別の方法はないかとお 伺いしたくってぇ」 能天気な千恵子の回答に、私は軽い眩暈を覚える。
千恵子の弁によれば、今回の再従兄弟の件ですでに四度目なのだという。
対象は学生時代の級友から近所の同年代、あるいはネットを介して知り合った心霊好きの同輩まで、いずれも経歴はばらばら。
ただし、身内を対象に“テスト”をおこなったのは今回が初めてだと、千恵子は答えた。 「よく刑事告発されないものですね」
再び率直な疑問をぶつけてみると、千恵子は露骨に胸を張るような仕草で「なんとか全部、示談にしていただきましたぁ!」と答えた。
「本気で息子さんの将来を思うのでしたら、むしろきちんと罪に問われるべきだと思います。大変申しあげにくいのですが、息子さんがしていることは滅茶苦茶ですし、犯罪です」
なるべく不快感を顔に出さぬよう提言するが、千恵子の回答は私の予想の斜め上をいった。 「でもねぇ、真也くんは本当にすごい能力者なんですよぉ? わたしも身体が 疲れた時とか、具合が悪い時にい、真也くんのオーラで癒してもらってるんで すう。本当にすうっと身体が楽になってすごいんですよぉ?」
熟れ過ぎて腐った林檎のような目をきらきらと輝かせ、千恵子は息子の愚行を賛美した。 「だからわたしもぉ、母として協力してあげられることはなんでもしてあげたいんですよぉ。真也くんは、母ひとり子ひとりで育ってきたから、寂しがり屋さんなところもあるんですう。わたしが日頃、真也くんに癒されてるみたいんに、わたしもあの子を全力で癒してあげたい。守ってあげたいなあって、思うんですぅ」
わずかに目を潤ませ、熱っぽい視線で千恵子がわたしに熱弁を振るう。
だがその一方、わたしのほうはもうすでに今件に対する興味も意欲も完全に失っていた。
「そうですか。それは大いに結構なことだと思います。でも事情はどうあれ、 差し当たって人様の鼓膜を破るような行為はどうかと思います。そのように 思っていらっしゃるからこそ、お母さんも私のところへお越しになられたので はないですか?」
――――まずは息子さんとこの件に関して、じっくりと話し合ってはいかがでしょう?
提言すると、千恵子は顎の下に人差し指を押し当て、つかのま悩ましげな顔をした。
「あのう? もしよろしかったらあ、真也くんを呼んできてもいいですかぁ?」
思わず「は?」と素っ頓狂な声が漏れる。
「実は真也くんね、プロの先生のお仕事に前からすっごく興味があってぇ、じゃじゃ~ん! なんと今日は一緒に来ているんで~す! せっかくなので俊 くんの鼓膜の件も含めましてぇ、先生のお口から真也くんに、いろいろアドバ イスをしていただけませんかぁ?」
たた 胸元で両手をばんと叩くなり、千恵子はこちらの返答も待たず、仕事場を出ていった。
私としてはもはや、息子と面会するどころか、母親にもお帰り願いたいと 思っていたので、大層ぐったりさせられる流れとなった。
大体、怪しげな「霊力を吹きこむ」などと称して他人様の鼓膜を躊躇なく破 る人間などに、会いたいなどと思う馬鹿はそうそういないだろう。
そもそも、拝み屋を目指しているのかスピリチュアル・カウンセラーを目指しているのか知らないが、いずれにせよこうした仕事を根本から勘違いしてい ると思った。
黄金色のオーラだの、波動だのという単語の羅列にも心底うんざりだった し、私の口からアドバイスできることと言ったら「まじめにまっとうな仕事を探せ」くらいのものである。
だが千恵子の話を聞く限り、そんなアドバイスに耳を傾けるような人物とも思えなかった。さてどうしたものやらと、俄かに煩悶させられることになる。
やがて二分も経たないうちに千恵子が息子を引き連れ、仕事場に戻ってきた。
「どうもっす。芹沢真也です」
座卓の対面に千恵子と並んで座った真也は、見た目だけは普通の若者といった印象だった。
小柄な体型に色の白い、比較的端整な顔立ち。前髪を少し長めに伸ばした頭 髪に耳ピアス。服装は胸元をはだけた黒いシャツに黒のタンクトップ。腰から下も黒色のジーンズに靴下と、頭のてっぺんからつま先まで全身黒ずくめのい でたちである。
「母親からいろいろ聞かされたと思うんですけど、俺個人としては別に悪いことをしている意識はないんすよ。心霊とか興味あるくせに、テストに合格しない半端な奴らが悪いんで」
千恵子を母親”と称しながら、いかにも馴れ馴れしい口ぶりで真也が語り始めた。
「そもそも志願してきたのはあいつらで、俺は力を覚醒させようとしただけっす。テストに合格するだけの資質がなかったあいつらが悪いんであって、俺が悪いわけじゃないです」
予想していたとおり、当人の口からも支離滅裂な言葉しか出てこない。打つ 手もないため、差し当たっては肯定も否定もせず、ただ「うんうん」と調子を合わせ、語るがままに任せた。
「でも、この間の俊くんは違うのよねぇ? 真也くん、ちゃんと説明しなきゃ ダメじゃない。先生に誤解されちゃうんじゃないかしらぁ?」
そこへ千恵子がやんわりと口を挟んだ。
「っせえよ、お前。今俺が説明してんだから、ちょっと黙っとけ」
にやけ面が引っくり返ったように険しくなり、真也は千恵子の目をきっと睨みつけた。
「あ、ごめんね真也くん。うん分かった。ママ黙って、真也くんの話を聞ぅ」
甘ったるい声音で千恵子は真也に謝ると、座卓の下で真也の手をそっと握った。
「再従兄弟の子は、任意じゃなくて君が独断でやったってことかな?」
さっさとお帰り願いたかったので、話を先へ進めることにする。
「まあ、俊樹はいつものテストとは事情がちょっと別だったんす。あいつもテストといえばテストなんですけど、なんていうのかなあ・・・・・・まあ、保険ですよ保険」
したり顔で真也が答えたが、相変わらず私の頭には何もかもがちんぷんかんぷんである。
「保険………………。保険っていうのはどういう意味なの?」「うーん。これ、あんまり人に言ったらまずいんですけどねえ。どうしてもっ てんならまあ、触りだけでも話してやるか。・・・・・・知りたいっすか?」
別に知りたくなどないのだが、知りたいと答えないと話が進まないような流れだった。 「ぜひ知りたいね。保険ってのはなんなの?」
「実はこれから身内の間で、いろいろとゴタゴタが起きると思うんすよ。それも俺と同年代、若い世代の間で。悪い芽だったら早めに摘んでおこうっていう予防策がまずひとつ目っすね。それから波動流しはテストも兼ねてるんで、もしもテストに受かって使えそうな奴だったらこっち側に引きこんでおこうか なって。まあ、そういう巧妙な二重策ですよ」
結果、ますます話が見えなくなった。そろそろ話に付き合うことさえ馬鹿らしいとも思う。この辺で頃合いかと判じ、一気にまとめにかかることにした。
「まあ、でもさ。事情がどうであれ、人様の鼓膜を破るっていうのはいけないことだよね? たまたま今までの暴行騒ぎは事件にならなくて幸運だったと思う。悪いことは言わないから、そういうことはもうやめたほうがいいんじゃないかな?」
千恵子に頼まれたまま忠実に、なおかつ努めて平板な調子で忠告する。
「あっそ。要するに俺の話を理解できないってことっすね。なんか笑える。人 から金取って、これくらいの実力なんすね?」
真也は一瞬凍りついたあと、今度は冷ややかな笑みを浮かべ、露骨に私をこきおろした。
「まあね。私には君が語るみたいな高度な話は残念ながら理解できない。申しわけないね」
あくまで柳に風といった体を装い、真也の挑発をかわす。
「なんすかそれ? 自分がプロだと思ってバカにしてんすか?」
「いや別に。そういうふうに受け取られてしまったんなら謝るよ」
「なんかむかつくな、あんた。 うん、むかつくわ」
真也の瞳にぼんやりと、憎悪の炎が灯るのを見る。これ以上、関わりたくな どなかったが、当の真也は引く気配などないようだった。
「テスト、なんならあんたにもしてやりましょうか? 本物かどうか見極めてやりますよ」
鼻先でくすりと小さく笑いながら、真也が私に向かってゆっくりと身を乗りだした。
「ダメよぉ、真也く~ん。先生に失礼でしょお?」
座卓の下で握った真也の手をさらにぎゅっと握りしめつつ、千恵子が優しく真也を制する。しかし、真也は千恵子の言葉をまったく聞き入れようとしなかった。
「つかうるせぇって、お前。いいから黙っとけ!」
「おい、お前こそあんまり甘くみるなよ。ここで猿声おっ立てやがったら、すぐさま警察に通報してやるからな。分かったら大人しく座ってろ、クソガキが」
あくまで冷静にいこうと思っていたのだが、ここらが私の限界だった。
「あ、ビビッてんですか? 大丈夫っすよ、郷内先生。“本物”だったら別に痛くもかゆくもないっすから。それともあれっすか? 自分がインチキだってバレるのが怖いんだ?」
得意げな顔でせせら笑う真也の姿に、虫唾が走る。
「芹沢さん。申しあげにくいのですが、不調法もいいところです。ご相談の件 もそうですが、息子さんの人格も含め、とても私の手には負えません。どうぞ お引き取りください」
「あーあー、都合が悪くなったんで今度は帰れコールですか。ガキと一緒っすね、超ダセえ。これじゃあ、わざわざテストするまでもないなァ。よかったっすね、鼓膜破かれなくて」
侮蔑の籠った眼差しで露骨に私を嘲りながら、真也が滔々と宣った。
「そんな、そんなぁ。先生、ちょっと待ってくださいよぉ。確かに今の真也くんの態度はぁ、ちょっとよくなかったかもです。でも、そういうご対応はあんまりなんじゃないですかぁ? わたしたち、今日はお客さんとしてお邪魔して るんですよぉ? お金だって払うんですから、きちんと最後までお話を聞いて くださぁ~い」
座卓の下で相変わらず真也の手を握りながら、千恵子が口を尖らせ反論する。
「お金はいりません。何も拝んでいないんですから。さあどうぞ、お引き取りください」
構わずその場から立ちあがると、私は出入口の引き戸を開け放ち、退室を促した。
「まあいいじゃん。先生もボロが出ちゃって居心地悪いんだよ。時間の無駄だから帰るぞ」
へらへら笑しながら腰をあげ、真也が千恵子の手を引いて立ちあがらせる。
「こんなんで地元で商売してるようじゃ、やっぱダメだな。早く俺が立ちあがんねえと」
「いいからさっさと失せろ」
「あ、そうだ! ひとつだけ訊くの忘れてましたよ。あんた、インチキだから 分かんないと思うけど、知識ぐらいはありそうなんだ。一応訊いときますよ」
「聞こえなかったか。話は終わりだ。四の五の言つてないでとっと帰れ」
「まあまあ、そう言わずに。これだけ訊いたらすぐに帰りますから。お願いしますよ」
「なんなんだ。答えてやるから早く訊け」
「“失せ物探し”つていうんすか? ほら、ババアの霊能者とかがたまにテレビで やるっしよ? 失くした指輪とかを霊能力で探し当てるやつ。あれ、どうやってやるんすかね?」
「大層な力を持ってるんだろ? それくらいできてなくどうすんだ」
散々罵倒された仕返しに、私も皮肉をこめて言い返してやる。
「だから素人だってつってんだよ。俺のモードは攻撃系と癒し系なの。失せ物を探すみたいなちまちました能力じゃないんだっての」
不快を露わにしながら真也が答えた。まるで少年漫画のような世界観にうんざりする。
「そんなちまちました能力なんぞお前に必要ないだろう。みなぎるパワーをフル覚醒させて、元気に猿声おっ立ててりゃあいいじゃないか」
「うっせえんだよ、ポンコツ三流風情が。まったくもって使えねえ。あんた小物っぽから、そういうのに特化してんのかと思ったんだけど、そっち系もダメかよ。ほんとにやめたら?向いてないよ、この仕事」
「聞かれたことには答えてやった。もうたくさんだ。とっとと消え失せろ」
「口の汚ねえ拝み屋。こんなところにわざわざ出向いてきたのが間違いだったよ」
戸に何か向かって歩きだしなから、真也が苦々しい顔で毒づいた。
「探してるものがあるんだよ。だから失せ物を探せる力が必要だったんだ。あんたが本物で、態度も立派だったら頼もうと思ってたんだけど、もういいよ」
「何を探してんだ? 礼儀作法とか、目上の人間に対する口の利き方とか?」
訊くつもりもなく、ほとんど皮肉で投げ返した言葉が、不可抗力で質問になってしまった。
「至純の光。元の在り処は分かっていて、ずっと狙っていたのに、行方不明になってしまった。あれさえ手に入れば、俺はすぐにでもこの国でいちばんの霊能者になれるのに」
結果的にまたぞろ聞きたくもない戯言を聞く羽目になってしまい、心底厭気分になる。
「至高の光って知ってる? あんたなんか、ひと目見ただけで頭がやられてしまうと思うよ。あれと出逢った瞬間から俺の人生は始まったんだ。だから、ど うしてもあれが欲しいんだよ。もしかしたら探り当てられるかもしれないって 思って来たんだけど畜生。当てが外れたわ」
じゃあねインチキさん。
捨て台詞をひと声吐くなり、真也は庭先に停められていた車へ悠然と戻って いった。
「あの……真也くん、今日はなんだからちょっと神経昂ってるみたい。でもほんとはとっってもいい子なんですよぉ? よかったらまたお話、聞いてあげてくださいねぇ?」
おろおろしながら、千恵子が私に頭を下げる。が、私の答えはもう決まっていた。
「もう二度と来ていただかなくて結構です。どうぞお引き取りください」
千恵子の反応を待たず、ぴしゃりと引き戸を閉める。
座席の定位置に座り直してまもなく、庭先から車の発信するエンジン音が聞こえてきた。
それを受けて、ようやく深々としたため息を漏らす。
我ながら大層大人げないことをしたとしでかしたと思いはしたが結果は変わらないのだからどういうこともない。あんな母子とこれ以上縁が深まるのは願い下げだった。
相談開始時、千恵子に差しだした湯呑み茶碗を片づけるべく、手を伸ばす。
茶碗の底を見たとたん、思わずぎょっとなって口から勝手に悲鳴があがった。
茶碗んおそこが切り取られたように丸く消え失せ、下に敷いた茶托が顔を覗かせていた。
茶托こと手に取って検めてみると、消え失せた茶碗の底は、茶托の真下から見つかった。
円形に切り取られたその断面はとても滑らかで、小さなひび割れがひとつできていない。
一体、何をどうすればこのような芸当ができるのか、皆目見当がつかなかった。
――でもねぇ、真也くんは本当にすごい能力者なんですよぉ?
先刻、千恵子が息子を指して繰り言のように吐いた賞賛が、じわりと現実味を帯び始める。認めたくなどないのに、目の前に開かれた現実が否応なしに私に同意を突き付けた。
違うと思いながらも茶碗を片付ける私の手は、かたかたと震えが走って止まらなかった。
華原雪路 【平成十七年六月二十一日】
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「そいつはとんだ災難だったなあ! いや、ごくろうさん!」
芹沢真也に関する私の愚痴を一頻り聞いたのち、華原さんは顎を引きつつ豪快に笑った。
湿気混じりの空気に蒸し蒸しとした不快な熱気の籠る、肌身に心地の悪い夕暮れ時だった。午後の仕事を終えて時間が空いた私は、同業の先達である華原雪路の自宅を訪ねていた。
華原さんは、当時の私よりひと回り年上の三十代前半。二年ほど前に内縁の妻を引き連れ、中越地方の某県から私の地元へ引越してきた。
一読すると女性のように思える名前なのだが、華原さんは女性ではないし、 本名でもない。これはその昔、拝み屋を始める際にいい加減な師匠から授かった名前なのだそうである。
知り合った当初、ちょっと面白かったので「女みたいな名前ですね」と突っ こんだところ、「お前だってオカマみたいな名前じゃねえか」とやり返されたことがある。
言われてみれば、確かに「心瞳」という拝み名も、女性的な響きと言えば言えなくもない。ちなみにこの名も拝み屋を始める際、一応の師匠筋に当たる水谷源流から賜ったものである。字面と響きはそれなりに気に入っていたが、由来についてはよく知らない。
「そんなに笑わなくたっていいでしょう。本当に修羅場だったんですから」
「そいつはすまねえ。けどまあ、お前はほんとに客運が悪いわなあ」
にやけ面で華原さんがコップに酒を注いでいるところへ、恋さんが酒の肴を運んできた。
恋という風変わりな名を持つこの内縁の妻も、実は本名ではない。華原さんの弁によれば、以前に彼女がスナックで働いていた頃の源氏名であるらしい。
ふたりのなりそめについて、くわしく尋ねたことはない。ただ、華原さん個人に関しては二年前、地元の客に嫌気が差して宮城に逃げてきたということだ けは聞かされていた。
「客のガキに舐められるわ、金もふんだくれないわじゃ、泣きっ面に蜂だなあ、おい」
内縁の妻に供された貧相な肴をつまみながら、やれやれと華原さんが頭を振る。
「ふんだくるなんて、人聞きの悪いことを言わないでくださいよ。別にいりません。下手に受け取ってあとからゴタゴタするのも嫌ですし、早々と縁を切っておきたかったんです」
「商売下手だね。おまけに客あしらいも下手だわな」
「仕方がないでしょう。あなたみたいな『大ベテラン』とは違って、俺はこの いま 仕事を始めてまだ三年目です。未だに駆けだしなんですよ。至らぬ点も多々あります」
「バカ野郎。金取って商売してんだぜ。客にとっちゃ、駆けだしだろうが十年選手だろうが、そんなものは関係ねえんだよ。つまんねえ言い訳をしてんじゃねえ」
まさに言うとおりだったので、返す言葉がなかった。
「けどまあ、今回の件はしょうがねえな。頭のイカれたガキなんか相手にすることはねえよ。俺らが手掛けるようなシロモンじゃねえわ」
別段、私と華原さんは師弟関係というわけではない。
ただ、向こうのほうが年上だという点に加え、彼のほうがすでに十年以上も拝み屋として先輩だったため、何かが起きるとこうして愚痴などをこぼしに来てしまうのである。
華原さんとの出会いは当時から遡ること、さらに一年半前。地元の古本屋で仕事の資料に使う宗教書を物色していたところ、偶然声をかけられたのがきっかけだった。
「若いのにンなもんに興味持ってると、俺みたいになっちまうぞ」というのが、華原さんの第一声だった。それ以来、なんとなくウマが合ってしまい、こうしてたまに顔を合わせては、取り留めのないやりとりを繰り返している。
「ただのイカれたガキならいいんですよ。でも聞いていませんでしたか? 湯呑み茶碗の件。気味が悪くてしょうがないです。あんなこと、仕掛けもなしに できるもんですかね?」
「仕掛けがあろうがなかろうが、そんなもんは関係ねえよ。仮にそいつがほざく霊能力だか神通力だかで茶碗の底に穴が開いたとする。で、だからなんだ? それがなんの役に立つ? 要はスプーン曲げなんかのたぐいとおんなじだ。 実用性のねえ、単なるパフォーマンスだよ。ほんとにすげえ能力だってんな ら、お前の心臓でも止めてみろってのよな?」
捲くし立てるように言い切ると、華原さんはコップの酒を大きく呷ってにやりと笑った。
「なんてことを言うんですか。縁起でもない。真面目に話を聞いてくださいよ」
酒には滅法強い男だったが、たまに酔ってもいないのに、こうして悪酔いしたふりをして話をはぐらかす。これ以上掻き回される前にさっさと訊くべきことを聞いておきたかった。
「はっきり言って俺は、霊力だとかオーラだとか、そういうものはあんまり信じていません。ただ、この仕事をしていると時々分からなくなることがあるん です。神通力とか超能力とか、そういう不思議な力というのは、この世に本当にあるものなんでしょうか?」
「お前、幽霊が視えるじゃねえか。それは不思議な力じゃねえのか?」
私の言わんとしていることはすでに分かっているくせに、こうして話の腰を折るのである。
「露骨に公言したことはありませんし、それを売りに仕事もしていません。な ぜかというとそれは非常に主観的なものだし、客観性を伴わないものだからで す。他人に見えないものが“視える”というのは、要するに個人体験です。裏を返せばそれは、幻覚とも思いこみとも片づけられる、まったく信憑性に乏しいものです。だから俺自身は“視える”ということを“能力”だとは思ってい ませんし、頼りにもしていません。売りにするつもりもありません。俺が言っているのはそういうんじゃなくて、要するに昨日の湯呑み茶碗みたいに誰の目 にも客観的に現象を提示することができるような能力が、果たしてこの世にあるのかないのか? つまりはそういうことなんですよ」
途中で余計な茶々が入らないよう、すらすらとひと思いに言ってやった。
「はいはい。青臭いご高説とご質問をどうもありがとうございます。いいか、 心瞳。聞けよ。俺もこの間、仕事をしていてこんなことがあった」
先の萎びた煙草に火をつけながら、華原さんが突としてこんな話を切りだした。
一週間ほど前だそうである。華原さんの家にひとりの相談客が来訪した。
二十代半ばの若い女だったが、化粧気はまるでなく、血色を失った肌質は乾いてばさばさ。加えて服装も無頓着で、皺だらけの黒いブラウスに下はジャージといういでたちだった。
なんだか生きることをすっかり放棄してしまったかのような風体だったという。
女は名を早紀江といった。彼女が持ちこんだ依頼は、極めて簡潔かつ直球的なものだった。
――長年、霊能者を生業として世間の人を騙し続けている父親を呪い殺して欲しい。
早紀江の父親は、早紀江が物心ついた頃からすでに霊能者だった。 自宅の庭に社殿ともお堂ともつかぬ奇妙な造りの道場を構え、口から出まか きとう せを語っては、訪れた相談客から法外な祈禱料を巻きあげ、生計を立てていた。
早紀江が父親の生業を“出まかせ”と判ずるには理由があった。
ひとつには、相談客から浴びせられる怒声が絶えなかったこと。初めのうちは「先生」と慕って通い詰めていた相談客の猫撫で声は、月日を重ねていくと決まって「貴様!」という怒声に切り替わる。こんなやりとりを小さな頃から早紀江は何度も聞かされていた。
ふたつには、相談客から持ちこまれる相談事の大半がいつまで経っても解決 を見ないこと。早紀江の父親は、客を値踏みしていい鴨だと踏むや、あの手こ の手を使って放さなかった。当初の相談内容など適当にはぐらかしては、家に悪霊が棲みついている、先祖が祟っている、水子が障っているなどと脅し、客 が自分の許へ通う口実を次々とでっちあげる。
一度など、相談客の年若い娘に悪霊がとり憑いたなどと嘘八百を並べ立て、 彼女を自殺に追いこんだことまであるのだという。
事の大小にかかわらず、そんな彼の所業を知って心を打ちのめされるたび、台所で夕飯を作りながらすすり泣く母の姿が堪らなく可哀そうだったと、早紀江は語る。
また、そうした妄言虚言の類は客だけでなく、母親と早紀江にも向けられた。
自身に関する不都合な事実を歪曲するため、父親はしばしば「神のご託宣」を宣った。
たとえば、母が父親の意に染まない服を着ているのを見れば、「神がそんな服を着るなとおっしゃっている! 着替えてこい!」などと居丈高な態度で恫喝する。
早紀江が一緒に遊ぶ友人のことが気に食わなければ、「あんな不信心な者と 遊んでいると、そのうち大きな事故に遭うであろう!」などとうそぶいてみせる。
万事においてこうだった。細かいことを挙げ連ねればきりがないほど、父が宣う戯言は、早紀江の人生の中で繰り返し執拗に、まさに自分を縛りつける呪詛のように続けられた。
結果、思春期を迎える頃には彼を殺してしまいたいと思うほど、憎むようになったという。
だがその一方で、そうした繰り言に身も心も疲れ果て、抵抗すらままならない自分もいた。
父親を殺したいと思いつつ、早紀江の心は人として自由に羽ばたける年齢を 迎える頃には、もうすでに壊れきってしまっていたのだという。
できれば母と一緒に逃げだしたいという思いもあった。だが、早紀江の心が壊れるよりもずっと前に母の心は壊れていた。母にも父親から逃げる気力は残っていなかった。
ひとりの人として自由に生きることも叶わず、大事な母を守ることもできず、何もかもをかなぐり捨てて逃げだすことさえもできず。早紀江は結局、今現在も父親が支配する実家に身を置き、壊れた母と肩を寄せ合い、半死人のような暮らしを続けているのだという。
それでも最後の気力を振り絞ってきたのだと、早紀江は華原さんに凄然と迫った。
――お願いします。父を呪い殺してください。
血色の悪いがりがりに痩せこけた面相に、しかし目だけはけだもののような迫力を籠めて、早紀江は懇願したのだという。
「それで、呪い殺したんですか? その父親を」
「やるわけねえだろ。呪いなんて外道は、俺の専門外だ。できませんやって 言って断ったよ。代わりに何か困ったことがあったらいつでも遊びに来なって ことにして、この前は終わった。ま、遊びに来いって言った手前、当面は慈善 事業だわな」
どちらが商売下手で客あしらいが下手なのか、よく分からなくなる。
しばしばこのような対応をして、華原さんは相談客の依頼を放棄する。その後に続くのは仕事を抜きにした人対人の単なる交流である。だからこの人は貧乏なのだと、私は思う。
「まあ、外野が軽はずみにどうのこうのと口を挟むべきではない、デリケート つな な案件ですね。でも、その話と俺の質問がどう繋がるんです?」
「まあ、最後まで聞けや。オチをまだ話してねえ」
華原さんがぐいっと酒を一気に飲み干すと、隣に座る恋さんがすぐにおかわりを注いだ。
ふと気がつけば、すっかり話に聞き入っていた。いつのまにか、笑みを浮か べた恋さんが同じテーブルを囲んで座っていたことにも気づかずにいた。
早紀江が父親の生業を“出まかせ”と判ずる三つめの理由。
「あの人、わたしが視えているものが何ひとつ、全然視えていないんです」
早紀江も私と同じく、物心のついた頃から人ならざるものが視える体質だったのだという。
早紀江曰く、父親が君臨する奇妙な造りの道場を含め、自宅のありとあらゆるところには様々な異形たちがどろどろと数をなして渦巻いていた。
周囲の異変に少しも気づく気配すらなく、神だの仏だのと宣う父親の姿は甚だ滑稽であり、偽物と判じざるを得ない。然様に早紀江は語ったという。
「そういった論調だったら、俺の視える”という個性も、その霊能者の“視える”という欺瞞も、早紀江さんの “視える”という告白も全部同じじゃない ですか。いずれも客観的な証明が何ひとつできません。不毛な主張ですよ。 まったく意味がありません」
「それに関しちゃ、俺も大体同意だわな。でもな、その早紀江ってお姉ちゃん、そのあとにすげえことをしてみせたんだぜ?」
三つめの理由を告白した直後、早紀江は卓上に置かれた湯呑み茶碗に視線を落とした。
「・・・・・・それにこういうの、あの人はできないんですよ」
ぽつりとつぶやくなり、早紀江は湯呑み茶碗を包みこむように、そっと両手を添えた。
やおら茶碗の中から、ぽこりぽこりとお茶の弾ける音が聞こえ始める。 茶碗の中を覗きこんでみると、注がれたお茶が大きな泡を立てながら踊っていた。
泡はぽこぽこと軽やかな水音を響かせ、早紀江の手の中で二分ほど弾けていたという。
「そんな力があるのかねえのかと訊かれたら、まあ、あるのかもしれねえとだけ答えておく。何か仕掛けがあったのかもしれねえし、そんなもの何もなくて、ただありのままに起こった現象を俺は目の当たりにしたのかもしれねえ。けどここで話が戻る。で、だからなんだ?」
コップの底に残っていた酒を飲み干したあと、華原さんがじっと私の目を見つめた。
「あの娘が湯呑みに入った茶をぼこぼこさせられたからって、なんの足しにも なりはしねえ。だからわざわざ『親父を呪い殺してくれ』なんて物騒なこと を、俺に頼みに来たんだろう? 今回の相談事で肝心なのはそっちのほうだ。 果たして、あの娘の力が本物だったかどうか? そんなことは問題じゃねえ。 相談の本筋と関係ねえんなら、別にうっちゃっといて構わない。拝み屋っての しんがん はそんなもんの真贋を見極める仕事じゃねえんだ。客から持ちこまれた相談を どうやって解決していくか。そっちのほうこそが俺らの肝だ」
質問への回答を装い、華原さんから忠告を受けていることにようやく私は気づく。 「言っとくが、俺は別に人の目に視えねえもんや客観的に証明しようのねえも のを全面的に否定してるわけじゃねえ。時に呪いやら祟りやらまでとり扱うの が、拝み屋の仕事だからな。 あるんだ”と感じた時には素直にあると認めてる。そのうえでそれ相応の対応を図ってる。けど“ある”ありきでのめりこむのもまた、まずいもんだぜ? 肝心なのはそっちじゃねえ。客が抱えこんでる 悩みそのものよ」
――本筋を忘れると、見るべきものがおろそかになる。
私の顔を指さし、華原さんが言った。
「なるほど。俺が浅はかでした。ありがとうございます」
素直に礼を述べると、「いやにかわいいじゃねえか」と華原さんは笑った。
しばらくふたりで談笑しているところへ、庭先から甲高い獣の声が響く。
「あ、宇治衛門が来たみたい」
恋さんが腰をあげ、前庭に面した居間の掃き出し窓を覗き見た。
宇治衛門というのは、華原家の庭に時折やってくる野生の狸である。華原家は山の裾野に面しており、家の裏手には広大な雑木林が広がっている。宇治衛門はどうやらその雑木林の中からやってくるようだった。
「またおこぼれか。今日は大したもんはねえぞ」 笑みを浮かべて立ちあがると、華原さんは掃き出し窓を開け、酒の肴を庭先 に放り投げた。狸は土の上に落ちた肴におずおずと近づくと、ばくりと咥えて林のほうへ踵を返していった。
「狸ってのは警戒心が強い。けど妙なところで肝が据わってやがんのか、根が間抜けなのか、たまにこうやって大胆にリスクを冒すわけだ」
図太く餌をねだりにくるくせに、その実、決して懐こうとはしねえ。
前庭を足早に立ち去る狸の後ろ姿を呆れ顔で眺めながら、華原さんは言った。「好奇心は大事なもんだが、警戒心も大事なもんだぜ? 余計な話に深入りだけはするなよ。拝み屋は決して万能じゃねえ。俺らが扱えるのは、人の理に収 まるものだけだ」
華原さんの言葉に私はうなずき、去りゆく狸の尻を目で追った。
月に見える 【昭和五十六年四月某日】
-
わたしが椚木の家に嫁いでから、半年余りが経ちました。
時折、深夜に轟くあの獣たちの恐ろしい咆哮は、未だなお健在です。
家族の返答にも、変わりはありませんでした。皆一様にわたしの勘違い、幻聴などと判じ、それ以上の答えは何ひとつとして返ってこないのです。
この頃にはあまりしつこく訴え続けると、あけすけに怪訝な顔もされました。のみならず、時には憐憫をこめた眼差しで、ひどく心配されることさえありました。
どうやら家族は、わたしの神経が病んでいるのだと思っているようです。
心外でしたけれど、無理からぬ話とも思いました。家族の誰にも聞こえるは ずのない声が、わたしの耳にだけ聞こえてくるのです。そんなことが正常であるはずもありません。
そのうち、わたし自身も少しずつ、自分の正気を疑い始めるようになっていきました。
本当にわたしは、おかしくなってしまったのかもしれない――。
昼日中はそんなことを思いながらずっしりと項垂れ、真夜中に獣たちの咆哮で目覚めれば、その声の恐ろしさに身を縮こまらせて震え続ける。
そんな不毛で殺伐とした煩悶が、いつのまにかわたしの常態にすり替わってしまった頃。
春先の肌寒い、ある深夜のことでした。
その夜もわたしは、獣たちの放つ凄まじい大絶叫で目を覚ましました。
声を聞くなり、たちまち全身が棒のように竦みあがり、がたがたと震えが生じます。
偏頭痛が治まるのをじっと耐えるように、わたしは布団の中で両耳を塞ぎ、獣たちの声が収まるのを身を強張らせて待ちました。
それからどれほど耐え忍んだ頃でしょうか。つと塞いだ耳の外側に、獣たちの声とは違う、異質な音が混じり始めたのに気がつきました。恐る恐る耳から 手を離して音の気配を探ると、それは居間の電話がけたたましく鳴る音でした。
時計を見れば、深夜の二時をわずかに回る頃です。こんな時間に聞こえてくる電話の音は、すでにそれだけで不穏な予感を切々と孕むものでした。
獣たちの声に怖じ気を感じながらも駆け足で茶の間へ向かい、受話器を取ります。
果たしてわたしの予感どおりでした。電話は、わたしの実家の母からでした。
つい先ほど、就寝していた父が布団の中でのた打つように苦しみ始め、本土 の総合病院へ緊急搬送されたというのです。
父はすでに意識を失っており、容態は極めて危険。最悪の事態も考えなければならないと母から聞かされ、すぐに病院へ来てほしいと嘆願されました。
乞われるまでもなく、わたしもそのつもりでした。「すぐに行くから!」と 答えて電話を切るなり、武徳に車をだしてもらおうと考えました。
そこではっと気がつき、みるみる全身から血の気が引いていったのです。この夜も武徳は母豚の分娩のため、豚舎に詰めておりました。彼に事情を伝 えるためには、裏庭を突っきって豚舎へ行かなければなりません。
たちまち足が竦み、両膝が壊れたように笑いだします。
わたしが思い惑うさなかにも、戸外からは獣たちの甲高い猛りが耳に届いて 一瞬、義母と義妹たちを起こそうかと考えました。ですが今夜は分娩の日。 あした 義母も武徳と一緒に豚舎に詰めているのです。加えて義妹たちも、明日はそれぞれ仕事と学校があります。いくら家族とはいえ、こんな夜中に声をかけるのは大いに躊躇われることでした。
進退窮まったわたしは意を決し、懐中電灯を携えると勝手口から裏庭へ出ました。
狼の遠吠えを思わせるあの恐ろしい咆哮は、戸外へ躍り出ると一際大きく鼓膜を突き刺し、わたしの怖じ気を弥が上にも増幅させました。
ですが幸いにも声は今、屋敷の前庭辺りを行進しているようでした。
裏庭に面した勝手口から豚舎までの距離は、およそ五十メートル。
脇目も振らず、全速力で一直線に駆け抜けていけば、なんとか獣たちに出くわすことなく、武徳の許へたどり着くことができそうでした。
息を整え、声の様子を見計らうなり、豚舎を目指して走りだします。
この夜も空には月がかかっていました。青白い月光に晒された屋敷の裏庭は仄かに明るく、懐中電灯を翳さずとも駆けることは容易でした。
背後で激しく轟く遠吠えを背に、生きた心地もしないまま無我夢中で駆け続けます。
戸外で獣たちの声を聞くのは、この時が初めてのことでした。
こうしてじかに耳にすると、やはり声はわたしの勘違いや幻聴などではないと、まざまざ実感させられるだけの圧倒的な生々しさがありました。
どうして家族のみんなに、この声が聞こえないのか。
どうしてわたしは、独りでこんなに苦しまなければいけないのか。
父の安否を案じる気持ちの昂りも重なり、いつしかわたしは涙を流しておりました。
せめて武徳だけでも分かってくれればいいのに。
庭では未だ獣たちの咆哮が、渦を巻くように猛っております。
もうすぐ豚舎へたどり着けば、そしてこの声がわたしの幻聴でないのだとすれば。
きっと武徳もこの声を聞くことになるはず。
仄かな希望を胸に抱き、目前に迫りつつある豚舎へ走っていた時です。
そこでようやくわたしは、気がついたのです。
声が背後からだけでなく、前方の豚舎からも聞こえてくるということに。
背後の声に比べるとそれは幾分小さく、また数も少なく感じられました。
だから間近に接近するまで、わたしは気づかずにいたのでしょう。けれども 豚舎まで残り十メートルほどまで迫った今、それはわたしの耳にはっきりと聞こえてきます。
さらにはこの段に至って、思わずはっとなることが突として脳裏をよぎりました。
どうして今まで気づかずにいたのでしょう。
獣たちが吠え荒ぶのは、決まって武徳が家を空ける晩のことでした。
とたんに得体の知れない不安が、胸の内からじんわりと染みだしてきました。
心臓が早鐘を打ち始めたかと思うと、矢庭に胸が苦しくなり始めます。一方、豚舎からはもはや空耳では済ませられないほど、獣たちの猛る声が盛大に鳴り響いてきました。
いえ、厳密には豚舎の中からではありません。豚舎の脇には小さな木小屋が立っています。分娩の夜などに休息をとるために使われている簡素な造りの建物です。
声はその中から、はっきりと聞こえてきておりました。
その場に茫然と立ち尽くし、わたしが慄くさなか、はたと気づけば背後で遠く轟いていた獣たちの声が、徐々に大きくなって近づいてきておりました。
けれども声は前方の木小屋からも、がなりたてるように鳴り響いてきます。
どうすることもできず、ここでとうとう堪らなくなってしまったわたしは、大きな悲鳴をひと声張りあげるなり、その場にどっと倒れこんでしまいました。
冷たい土の感触を背に感じながら震えていた私の顔に、すっと光が重なります。
木小屋の扉が開いたのです。
ですが、救けを求めて顔をあげるなり、わたしは再び悲鳴を張りあげました。
狼の頭をした男女がふたり、木小屋の中からのそりと出てきたのです。 昨年、寝室の窓から目撃したあの獣たちと、その顔は何もかもが同じでした。
漆黒の闇を吸いこんだように真っ黒な毛並みに、朗々と燃え盛るふたつの大きく黄色い瞳。
けれども身体は人間のそれでした。衣服をきちんと召した、ただの人のそれなのです。
衣服に目が留まり、それらが誰であるのか分かったとたん、わたしは意識を失いました。
二匹の狼が着ていた衣服は、武徳と義母のものだったのです。
再び気がつくと、わたしは武徳に上体を抱え起こされ、べちべちと頬を叩かれていました。武徳の傍らには、渋い面差しでわたしの顔を覗きこむ義母の姿もありました。
先ほど味わった凄まじい恐怖に再びパニックを起こしそうになりましたが、 武徳と義母の顔はもうすでに狼のそれではなくなっていました。
また、先刻まで背後で猛っていた獣たちの声も、いつのまにか聞こえなくなっていました。
こみあがる恐怖が胸の内で沈下していくと、今度は父の容態を思いただしはっとります。取り急ぎふたりに事情を伝えると、すぐさま武徳が車をだしてくれました。
検査の結果、父は軽い脳梗塞を起こしたことが判明しました。
不幸中の幸いにも、わたしが病院へ到着する頃には容態もだいぶ安定してきたらしく、どうにか峠を越えられそうだと母から聞かされ、安堵します。
その日は母とふたりで父に付き添い、病室で夜を明かすことになりました。
得体の知れない獣たちの声や存在について、実家の家族に語ったことは一度 もありません。余計な心配をさせたくないという気持ちも多分にあったからで すが、別の理由もありました。椚木の家族たちと同じく、実の両親にまで神経を病んでいると疑われるのが怖かったのです。
病室の床に敷いた簡易式の布団に包まって目蓋を閉じると、先ほど豚舎の中から出てきた、狼の顔をした武徳と義母の姿が、脳裏にありありと浮かびがってきました。
とうとう、あんなものまで見えるようになってしまったのか――。
「あなたは病気なんかじゃない」
事情を母に伝え、本当は慰めてもらいたいという気持ちもありました。けれどもです。たとえそんな言葉をかけてもらったところで、果たして今の わたし自身が納得できるかどうか。自信は一筋も湧かず、逆に不安ばかりが 募ってしまったのです。
隣で寝息を立てる母の姿を見ているうちに、救いを求める思いは徐々に萎んでいきました。結局わたしは口を噤み、その後は独りさめざめと泣きながら、不快眠りについたのです。
怪談 【平成十七年六月二十七日】
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鈍色の曇天から白糸のような雨が絶え間なく降りしきる、なんとも陰鬱な午後だった。
先日の深夜、ひと悶着あった千草の自宅を、私は再び訪ねる羽目になっていた。
前日の夜に千草から電話が入ったのである。
とりあえず前回の件は一段落した。そこでまた改めて、別の相談を頼みたいのだという。
正直なところ、全く気乗りのしない話だった。電話口で千草の声を聞いた瞬 間、あの晩の異様な一部始終が脳裏に蘇った。それだけで私の胃の腑は鉛のように重たくなったのである。
「来てくれてよかった! あたしね、先生のこと信じてたんだよ」
玄関口で出迎えるなり、千草は上機嫌な笑顔で私の顔をほくほくと見あげた。
「先生はよしてください。そんなご大層なもんじゃありません」
相槌とも軽口とも皮肉とも受け取れるような返事をしながら、家の中へとあがりこむ。
一瞬、家を間違えたのではないかと思い、内心ひやりとさせられた。千草の容姿が先日の深夜とは打って変わって、まるで別人のようだったからである。
ぼさぼさだった茶髪は綺麗に梳かれ、艶やかな光沢を帯びてまっすぐに整えられていた。顔には薄くファンデーションが塗られ、ピンク色のアイシャドーが目元の輪郭を鮮やかに浮き立たせている。化粧のせいもあるのだろうが、血色自体も先日より良さそうに見えた。
服装も灰色のスウェット姿から、今日は小綺麗なTシャツとジーンズ姿だった。
きちんと化粧を施した普段着姿の千草は、どこにでもいる二十代の平凡な女性に見えた。
さっそく居間に通されると、テーブルの端に美月の姿があった。目の前に落書き帳を広げ、クレヨンを使って何やら夢中でお絵描きをしている。
座りながら「何描いてるの?」と尋ねると、美月は「ひみつ」と答えてはにかんだ。
「この間は夜中なのにありがとう。おかげで母親のほうはギリギリなんとかなってます」
マグカップに注いだコーヒーを差しだしながら、千草が砕けた調子で礼を述べた。
「ぎりぎり、ですか? ということはまだ出るんですか?」
「残念ながら、まあね。でも家の中には入ってこなくなった。それだけでもとりあえずOK。もらった御守りも身につけて離さないようにしてるから、外に出ても近寄ってこれないし」
「御守りってほんとに効くんだねえ」と言ってから、千草はすぐにしまったという顔をして「あ、ごめん」と謝った。
「いえ、別にいいですよ。やみくもに盲信されるよりはマシですから」
「でもさ、死んだ人間って時間持て余してるからかな? すっごくしつこいもんよね」
千草の証言によれば、こうである。
私から譲り受けた御札を家中に貼って以降、件の母親は家の中には入ってこれなくなった。ただ、その代わりに今度は、家の窓外に立つようになったのだという。
「夜中、うなされて目を覚ましたりすると、大体窓の外にいんのよ。物凄い形相であたしをきっと睨んでんの。最初はうわっ! って思って、また郷内さん に連絡しようと思ったのね。でもいろいろ実験してみた結果、家の中には入っ てこられないのが分かった。外に出てもさ、電信柱の陰とかに突っ立ってるん だけど、御守りの力だね。近寄ってこれないの、あいつ」
いかにも「してやったり」といった顔つきで千草は言った。
亡き母に毎晩、窓から睨まれる娘。普通に考えれば、それは非常に異様な状況である。
非日常的な出来事を、まるで世間話のような感覚で平然と語る千草の様子を 目の前にして、私はわずかに慄いた。先日の夜更け過ぎ、彼女に対して思い抱 いた掴みどころのない印象が、胸の内に蘇ったからである。
どれほど装いを改めても、やはり彼女は普通ではない。理屈よりも、直感でそう思った。
「ねえ、あいつ本当にどうしたら消えてくれるのかな?」
困り顔で質問を投げかけられるも、なんとも返答のしようがなかった。
「それにはまず、あなたとお母さんの間に何があったのか、お話を聞かせていただかないと。今のところ情報が断片的過ぎて、私もどう対応していいのか分かりません」
「お母さんじゃなくて、母親ね」
母親を「お母さん」と称されるのがよほど嫌らしく、千草は先日と同じ訂正を入れた。
「ねえ。その前にちょっと、あたしの話を聞いてもらってもいい?」
一拍置いたのち、千草が思わせぶりな色を滲ませ、上目遣いで私の顔を覗きこむ。
「はあ・・・・・・なんのお話でしょう?」
「怪談、ですか?」
窓の外には相変わらず、白糸のような雨がさらさらと静かな音を立てて降り しきっている。いかにもお誂え向きな風情だったが、私は別に千草と雑談をし に来たわけではない。
「相談の本質に関わることでしょうか? でしたらお伺いいたしますが・・・…………」
「そんな感じかな。遠回しになるかもだけど、割と大事な話。だからちゃんと聞いて」
語調は飄々としていたが、千草の目は真剣だった。
「要するにね、あたしの履歴書みたいな話よ。郷内さんも“視える”人なら共感してくれる部分もあると思うの。本題はそのあとでさせてもらうから、とり あえず話を聞いて」
会話の流れから鑑みて、断るのも難しそうな雰囲気だった。素直に承諾することにする。
千草は居住まいを正すと、やがてぽつぽつと言葉を選ぶように語り始めた。
以下は高鳥千草がこの日の午後に語った怪談話を、一部抜粋して採録したものである。
#1 返して
千草が記憶する限り、生まれて初めて異様な体験をしたのは、幼稚園の頃 だったという。
季節は覚えていない。だが、夜中の遅い時間だったことは覚えていると千草 は語る。
ある深夜のこと。夢の中で誰かに呼ばれているような気がして、千草は目を覚ました。
寝ぼけた頭で布団から起きあがると、声は夢の中ではなく、窓の外から聞こえてくる。
小さな子供の声だった。声はひとりでなく大勢。それも何十人もいるよう だった。
声は黄色く弾んだ明るい声で、しきりに「返してー、返してー」と繰り返している。
不思議に思い、布団から抜けだそうとした時、隣で寝ていたお母さんの様子に気がついた。
お母さんも布団から上体を起こし、窓の向こうを見ながらがたがたと震えていた。
「どうしたの?」と尋ねると、お母さんはびくりとなって振り向き、「寝なさい」と答えた。
時々、お母さんは夜中に目を覚まし、布団の中で苦しそうに身を縮めることがあった。
今夜もそれかと思った千草は「具合悪いの? だいじょうぶ?」と尋ねる。 お母さんは額に玉のような汗を浮かべながらも「平気だから、もう寝なさい」と答えた。
「返してー」「返して」「返して」「返してー」
そこへ再び、窓の向こうから子供たちの声が聞こえ始めた。
立ちあがって窓辺へ近づこうとしたとたん、うしろからお母さんにぎゅっと腕を回された。
「ダメ! 絶対ダメ!」
驚いて振り返ると、凄まじい形相を浮かべたお母さんが千草の身体を押さえ 大声をあげるお母さんの顔が怖くて千草は泣きそうになったが、それでも子供たちの声は、庭のほうから大合唱のように聞こえてくる。
「だって、おともだちかもしれないよ? 返して返してって、困ってるみたいなんだもん」
半分べそをかきながら千草が訴えると、お母さんはふうっと大きく息を吐き、 「じゃあ見てみなさい」とカーテンを少しだけ、細く捲ってくれた。
窓辺にそっと顔を近づけ、外の暗がりに向かって視線を凝らす。すると窓から少し離れた植木の樹下に、小さな子供がたくさん並んでいるのが見えた。
歳は千草と同じくらい。どの子も素っ裸で、千草の顔を見つめてにこにこと笑っていた。
「ほら、やっぱりおともだち。はだかだから、みんなお洋服を探しているのかなあ?」
無邪気な声でお母さんに語りかけると、お母さんは悲しそうな顔をして目を 伏せた。
「・・・・・・そうなんだ」
てしまった。 小さくぽつりとつぶやくと、お母さんはカーテンを閉めて布団に戻っていってしまった。
声はその後も深夜になると、時々千草の耳に聞こえてきたが、お母さんは二度と窓の外を見せてはくれなかったという。
#2 ピンクの脚
千草が小学一年生の時だった。
当時、千草が暮らしていた実家には、玄関を開けて真正面に二階へあがる階段があった。
玄関の右側には茶の間があり、晩ご飯は一家揃ってこの茶の間で食べるのが 習慣だった。
ある夜のことだった。
いつもどおり、家族で食事をしていると、視界の端をさっと横切っていくものがあった。
反射的に顔を向けた先は、玄関口から二階へ伸びる例の階段である。茶の間と階段の間はガラス障子で仕切られており、階段の下側がガラス越しに少しだ け覗いて見える。
不審に思ってそのまま目を凝らしていると、再び何かが目の前をさっと横切っていった。
薄闇の中に裸の脚が二本、玄関から廊下を突っ切り、音も立てずに階段を上っていくのが、一瞬だけれどはっきりと見えた。脚は蛍光色のような、鮮やかなピンク色をしていた。
奇妙な光景だったが、不思議と怖くはなかった。なんとなく物珍しくも感じられたので、そのまま黙ってガラス越しに階段のほうを見つめ続けた。
するとまた、玄関のほうから脚が現れた。色や肉づきから察して、どうやら 先ほどの脚と同じもののようだった。ほっそりとした脚線から、女の脚だと思う。
脚はやはり少しの音を立てることもなく、ガラス障子の前を横切り、階段を上がっていった。
なんとも不思議な光景だったので、千草は興奮しながら家族に脚のことを伝えた。
ところが家族は「バカなことを言うな」と呆れて、まともに取り合ってくれない。
そこへ再び、玄関口からピンクの脚が現れるのが目に入る。
すかさず「ほらあれ!」と叫んで、ガラス障子の向こうを指さした。
それでも家族は「そんなものは見えない」と、一様に眉をひそめるばかりである。
納得がいかない千草は、急いで席から立ちあがるとガラス障子の前へ駆け寄り、力任せに戸を開け放った。
その瞬間、廊下を歩いていたはずの脚は、掻き消すように見えなくなってしまったという。
その後も、折に触れては脚を目にした。
見かけるたびにタイミングを見計らって戸も開けた。
しかしどれほど試しても千草が戸を開けると、脚は跡形もなく消え失せてしだから結局、脚から上の姿は一度も見たことがない。 奇妙な脚の出現は、千草が小学三年生にあがる頃まで不定期に続いたという。
#3 溶ける男
小学二年生の夏休み。千草はふたつ年下の弟を連れて、近所の駄菓子屋へ出掛けた。
帰り道、弟の手を引き路地を歩いていると、道の向こうに男が立っているのが目に入った。
真夏だというのに紺色のスーツを着こんだ、禿げ頭の中年男である。
外はかんかん照りの炎天下。それなのに男は微動だもせず、無言で路上に佇んでいる。
男は千草の顔を茫漠とした目で見つめていた。しかし千草の知る男ではない。
自宅は男の佇む向こう側にあった。話しみながらも慎重な足取りで男のほうへ歩いていく。
男まであと五メートルほどまで接近した頃だった。
ふいに「どろり」と滑った音が聞こえてきたかと思うと、男の頭がぐにゃりと顔を失なった。
ちょうど、ソフトクリームが溶けるような感じだった。
そのまま顔が崩れ、肩が崩れ、腹が崩れ、やがて男の身体が全て崩れた。
あとに残ったのは、路上に広がる大きな水溜まりがひとつ。しばしその場で啞然としながらも、千草は恐る恐る水溜まりを跨いで家路を急いだ。
ちなみに弟は、男の姿を見ていない。
しかし、路上に突然できた水溜まりにはひどく驚いていたという。
#4 鬼ごっこ
同じく小学二年生の秋だった。
放課後、千草は同級生らに誘われ、学校の近くにある神社で鬼ごっこをすることになった。
じゃんけんで鬼が決まると、他の子たちは広い境内の方々へ四散しながら駆けだしていく。一方、千草はそれを横目にしつつ、ひとりで社殿の周りをぐるぐると走り始めた。
無闇にあちこち逃げ回るよりも決まったコースを走り続けていたほうが、いざという時に柔軟な対応ができると踏んでの作戦だったぐるぐる、ぐるぐる、ぐるぐると。社殿の外壁に沿って一心不乱に走り続け るそのさなか、ふいに周囲の景色ががらりと変わった。
異変に気づいて立ち止まるや、思わず「えっ!」と声をあげて驚いてしまう。
千草はいつのまにか、町外れにある寺の墓地の中にいた。 それも無縁仏となった無数の墓石が、大人の背丈ほどの高さに積み重なった 傍らにである。その周りを千草はぐるぐると駆け回っていたのだった。
神社と寺との距離は、五キロ以上も離れている。狐に摘ままれたような心地で再び神社へ戻っていくと、みんなから怪訝な顔で「千草ちゃん、さっき消えたよね?」と尋ねられた。
#5 島の幽霊
小学四年生の夏休み。千草はお母さんの実家にひとりで泊まりに出かけた。
お母さんの実家は、三陸海岸の沖合いに浮かぶ小さな島にあった。
生まれて初めて見る海にすっかり興奮した千草は、毎日夢中になって海遊びに興じた。
実家には同い年の従姉妹がいた。活発だった千草に比べ、おしとやかで控えめな従姉妹は、色白で目の大きな、とても可愛らしい女の子だった。
従姉妹は家の中で本を読んだり、お人形さん遊びをしたりするのが好きな娘だった。
自分とはまるで対照的な従姉妹の性格に、千草は初め、少し距離を置いていたのだけれど、そこは子供同士のこと。いくらのまも置かず、ふたりは仲よく打ち解けた。
昼間は千草が海に行こうと従姉妹を誘い、夜は従姉妹が人形遊びをしようと 千草を誘った。ふたりはまるで姉妹のように、めくるめく夏の日々を謳歌した。
ある日、海で遊び疲れた千草と従姉妹は、家の中で仲よく本を読んで過ごすことになった。従姉妹の部屋の本棚から面白そうな本を物色していると、お化 けや妖怪のことが書いてある怖い本を見つけた。
「こういうの好きなの?」と千草が尋ねると、従姉妹は「うん、少し」とうなずいた。
その夜からは従姉妹にせがまれ、寝物語を語って聞かせるのが千草の日課になった。
千草がこれまで視てきたお化けや不思議な体験をした話を、従姉妹は時に耳を塞ぎながら、また時には千草にぎゅっと身を寄せながら、夢中になって聞き入った。
家族や身の回りの誰に話しても「嘘つき」とか「そんな事を話すのはやめろ」と言われてばかりだった千草にとって、従姉妹の反応はとても嬉しいものだった。
毎日怖い話をしていると、そのうち従姉妹も「お化けを見たい」と言いだすようになった。
「怖くないの?」と尋ねると、従姉妹は「ちーちゃんと一緒なら大丈夫」と微笑んだ。
聞けば家の近くの岬の下に、昔からお化けが出ると噂をされている洞窟があるのだという。ひとりでは怖いけれど、ふたりでならそこに行ってみたいと従姉妹は言った。
さすがに夜は怖過ぎるので、お昼ご飯を食べ終えた午後の早くにふたりで洞窟へ向かった。ごつごつした岩肌の下り坂をてくてく歩いていくと、やがて目 の前に海が開けた。
従姉妹に案内されながら、波飛沫が吹きつける岩場を飛び越え、さらに先へと進んでいく。ほどなくして岬の真下の岩壁に、ぽっかりと黒い穴を広げる不気味な洞窟にたどり着いた。
「この中にね、女のお化けが出るんだって」
朗らかな笑顔を少しだけひきしめながら、従姉妹が言った。
手には家から持ちだしたインスタントカメラが握られている。お化けが出たら撮るのだと、従姉妹がはしゃいで持参してきたものだった。
怖がる従姉妹に促され、洞窟は千草が先に進むことにした。
中が従姉妹に促されてみると、洞窟の内部は思ったよりも狭くて奥ゆきのないものだった。懐中電灯の明かりを向けると、どん詰まりの岩壁に光が当たって円い輪を浮かべた。 そのままゆっくりと歩を進め、上下へと光を翳していくと、やがてどん詰まりになった岩壁の足元に何かが像を結んで見えた。
それは石で造られた小さなお宮だった。
家の庭によくある、お稲荷さんを祀ったお宮にそれは造りが似ていた。けれども石の色や質感などを見ると、とても古そうなお宮だった。
お宮の周りにはお供えや小さな風車がいくつも立てられていたが、いずれも 古びて色褪せ、ぼろぼろになっている。
「怖い?」と千草が尋ねると、従姉妹は「怖いけど、ちーちゃんがいるから平気」と答えた。
「ね、写真撮ってみようよ」
千草の提案に従姉妹は「うん!」と頷き輝かせ、お宮に向かってシャッター を切った。
その瞬間。
真っ暗闇のお宮の上に女の姿がぼうっと浮かんだ。
フラッシュが消え、再び洞窟の中にどす暗い暗黒が戻る。
けれども懐中電灯を翳してみたが、女の姿はもうどこにもなかった。
けれども一瞬だったが、千草の目にははっきりと視えた。
白無垢を着た、花嫁だった。
頭には純白の綿帽子。白粉を塗りたくった薄白い顔面。真っ赤な口紅。手に握られた末広。それはテレビや写真などで千草がよく知る、お嫁さんの姿そのものだった。
花嫁の顔を頭の中に思いだしたとたん、千草の背筋がぶるりと震えた。
顔の肉が張り裂けるのではないかと思うほど、花嫁の顔には凄まじい笑みが浮かんでいた。それは千草が今まで見てきたお化けたちとはまるで違う、とて つもなく恐ろしい形相だった。
よくないものだと思い、千草は従姉妹に「帰ろうよ」と促した。従姉妹も 「うん」と応え、ふたりでぱたぱたと洞窟の入口まで駆け戻る。
「ちーちゃん、中にお化けいた? わたし写真撮ったけど、何か写ってるかなあ?」
手にしたインスタントカメラをいじくりながら、従姉妹が顔をくしゃくしゃ にして笑う。
その様子を見て、従姉妹には何も見えなかったのだろうと千草は察した。
「どうかな。写ってるといいね」
笑みを返し、従姉妹に優しい言葉をかけつつも「本当に写っていたらどうし よう……」
と、内心気が気でなかった。
「わたしね、もしもお化けが写ってたらぅうあ」
笑顔で千草に語りかけていた従姉妹の言葉が突然、妙な抑揚を残して止まった。
「どうしたの?」と尋ねると、従姉妹は兎のように身を丸くして岩の上へと蹲った。
千草もすかさずしゃがみこんで「大丈夫?」と尋ねる。従姉妹は丸めた身体をかたかたと小刻みに震わせ、奇妙な唸り声をあげていた。
「あううあうあうあうあぁ。あううあうあうあうあうあぁ。あううあうあう あうあぁ」
従姉妹は、いやいやをするように頭を左右に振りながら、言葉にならない声をあげ続ける。
千草が真っ青になりながら、小さな肩を懸命に揺すって名前を呼び続けていると、足元にじわりと変な温もりを感じた。視線を落とすと、従姉妹が漏らし たおしっこが岩場の地面にだくだくと滴り、黄色い水溜まりとなって千草のサ ンダルを濡らしていた。
その後、従姉妹は十分近くも岩場に蹲り続けたのち、ようやうのそりと立ちあがった。
千草が「大丈夫?」と声をかけると、従姉妹はぼーっとした顔つきで「何が?」と応えた。
まるぐ寝起きのような表情だった。
従姉妹は自分がおしっこを漏らしたことに気づく気配もなく、千草の目の前をふらふらと進んで岩場を引き返し始めた。
不幸中の幸いにも、帰宅する途中で従姉妹の様子は元に戻った。自分が漏らしたことにもようやく気がつき、びしょ濡れになったスカートを見ながらわんわんと泣き出した。
なんだかその姿がとてもかわいそうに思えて堪らなく、千草は先ほど従姉妹の身に起きた異変は全て黙っておくことにしたのだという。
その晩遅く、寝苦しさに目を覚ますすと、暗闇に染まった窓の向こうに人影があった。
寝ぼけ眼を擦りつつ、カーテンが薄く開いた窓に向かって目を凝らす。
とたんに「ひっ!」と鋭い悲鳴があがった。
昼間、洞窟で見たあの花嫁が、窓に両手をへばりつかせ、こちらをじっと見おろしていた。顔にはやはり、顔の肉が張り裂けそうなほどの凄まじい笑みが浮かんでいる。
「あたしを迎えにきたんだ……!」と思い、千草はたちまち総毛立って身を強 張らせた。
タオルケットを頭の先までべろんと被り、その夜はがたがた震えながら夜を明かした。
翌朝、目覚めると従姉妹が「また洞窟に行きたい!」とせがんだ。とんでもないことだと思ったので、千草は従姉妹の願いを断った。
その晩も夜中に異様な気配を感じてカーテンを薄く捲ると、窓の向こうに花嫁がいた。
その翌晩も花嫁は、千草と従姉妹が眠る部屋の窓辺に立った。
すっかり怖くなった千草は実家に電話をいれ、「早く迎えに来てほしい!」 と頼んだ。
帰りの船上、海の向こうに見える岬の洞窟に目をやると、岩間にぽっかりと開いた入口が、まるで血に染まったかのように赤々と光り輝いていたという。
#6 パンドラの箱
同じ年の冬休み、千草の母親が入院した。
母親が家を空けている間、悪戯心を起こした千草は、自宅の二階にある天井裏は物置になっており、平素は母親が鍵を保管して厳重に管理している場所だった。
しかし日頃、母親の私室に出入りをしていた千草は、鍵の在り処を知っていたのである。
手早く鍵をくすねると、千草の弟、それからたまさか家に遊びに来ていた従弟の男の子を引き連れ、喜び勇んで天井裏への扉を開いた。
仄暗く、徴と埃の臭いが漂う天井裏には、古びた家財道具や骨董品、年代物の木箱などが至るところにひしめき合って並んでいた。
幼い千草たちの目にその光景は、まるで宝物庫のように映った。
古びた甲冑や刀剣の発見に興奮したり、筆筒の引き出しから出てきた巻物を広げてみたり、綺麗な櫛やかんざしを見つけて微笑んだり、しばらく三人で思 いつくままに物色した。
そのうち、観音開きの大きな衣装箪笥の中に、千草は奇妙なものを見つけた。
子供の腕でひと抱えほどある、漆塗りの黒い箱だった。箱の形は立方形。上蓋には大きな御札が貼られていたが、書かれてあるのは難しい漢字だったので 読めなかった。
さっそく弟と従弟を呼び寄せ、衣装箪笥から取りだした箱を床の上に置く。
わくわくしながら箱を開けた瞬間、三人の口から「あっ」と声があがった。
箱の中には綺麗な女の人の顔が、ゆったりと仰向けになって横たわっていた。
艶やかでまっすぐな黒髪をおかっぱ頭に切り揃えたその女の人は、抜けるよ うな白い肌と翠玉のように鮮やかな緑色の瞳を持っていた。
桃色に染まった唇をうっすらと広げ、女の人は千草たちに涼やかな笑みを浮かべてみせた。
「なたうていすた。きらえいする。ほのあのきすたえらされふ」
ころころと鈴を転がすような声が、千草の耳朶を優しくくすぐった。
女の人が、千草の目を見て喋ったのだ。
何を言ったのかは分からなかったのだけれど、女の人の笑顔も声もすごく素敵だったので、千草は何か素晴らしいことを言われたのだと思った。
「すげえ・・・・・・すげえよ、これすっげえ・・・・・・」
隣に座っていた従弟が、なぜだかすごく眩しそうに目を細め、感嘆の声を漏らした。
「ぼく、なんか変な気持ち。変な気持ちになってくる・・・・・・」
一方、弟は泣きそうな顔をしながら、両手でぎゅっと自分のおちんちんを押さえ始めた。
「お姉さんは、どうしてここにいるの?」
「たないれいふる。そちそえまそ」
千草の質問に再び女の顔が声を発したが、やはり何を言っているのかは分からない。
でもそんなことは、大して気になる問題ではなかった。
もっとこの人を見つめていたい。ずっとこの人のそばにいたい。
そんな気持ちのほうがはるかに強かった。
千草たちは陶然とした心地でその後、何時間も飽きることなく女の顔を眺め続けた。
それからは家人の目を盗みつつ、来る日も来る日も天井裏へ入り浸るようになった。
従弟もまるで熱に浮かされたかのように、千草の家を連日訪ねてくるようになった。
弟も毎日荒い息を弾ませ、千草が天井裏への扉を開くのを待ち侘びるようになった。
家内に人気がないのを見計らい、天井裏に上って箱の蓋を開ける。
開けると、あの綺麗な女の人の顔が、涼やかな笑みを浮かべて千草たちを迎えてくれた。
千草は毎回おしゃべりを楽しみ、従弟は「うん、うん」と難しそうな顔で頻 りにうなずき、弟はいつも泣きそうな顔で「はあはあ」と熱い息を吐きなが ら、自分のおちんちんを触った。
「たにゃんたら、きしゃんされふ」
「とわろひえすた! みとかれいふ!」
女の発する言葉を真似て返事をするのが、千草は好きだった。
翠玉のような瞳をきらきらと輝かせ、女の顔はいつでも千草に優しく微笑みかけてくれた。
天井裏に通い始めてひと月余りが過ぎた頃、退院した母親が家に帰ってきた。
当然、天井裏は再び母親の管理下に置かれ、侵入は格段に難しいものになってしまった。
しかし、千草たちはそれでも我慢することができず、その後も天井裏への侵入を試みた。
だが、数度目の侵入であえなく母親にばれてしまった。
仕置きは千草たちが想像していたものをはるかに超える凄惨さだった。
全員、歯が折れ、全身に青痣ができるほど、太い棒きれでめっためたに打ち据えられた。
この時の母親は母親と思えぬほど、凄まじい殺気に満ちた恐ろしい形相をしていた。
その後、従弟は家に出入り禁止となり、千草と弟も天井裏はおろか、二階へ行くことすら禁じられるようになってしまう。
烈火のごとき母親の怒りはまもなく収まりを見せたが、その後も千草と弟に向ける視線は氷のように鋭く、常に監視を受けているような心地にさせられた。
天井裏に隠されていた、あの綺麗な女の顔はなんなのか。
知りたい気持ちもあったのだけれど、とてもそんなことを尋ねられる雰囲気 でもなかった。だから千草は屋根裏に居る彼女の正体について、未だに何も分からないままなのだという。
#7 問いかけ
こちらは小学六年生の時にあった話だという。
夏休みに子供会の行事で肝試しをおこなうことになった。
場所は地元の寺にある墓地。千草は上級生ということもあり、脅かし役を担当した。
暗闇に染まった墓石の裏側に隠れ、肝試しを始めた子たちが通りかかるのを 待っていると、背後からふいに声をかけられた。
「ねえ僕、死んだのかな?」
振り返った先には、白い経帷子に身を包んだ小さな男の子が立っていた。
年は五、六歳くらい。顔色は凍えたように蒼ざめ、目には大粒の涙が浮かんでいる。
「・・・・・・分かんない」
千草が答えると、男の子は「そっか・・・・・・」とつぶやき、ゆっくりとした動きで踵を返すと、身体を左右にふらつかせながら墓地の奥へと向かってとぼとぼと歩きだした。
闇の中を進んでいく小さな背中は、しだいに透けてまもなくすっかり見えなくなった。
のちになって知ったのだけれど、肝試しの日から十日ほど前、地元の幼稚園に通っていた男の子が長患いの末に亡くなっていたそうである。
#8 他校の異形
だという。 千草が中学二年生の時のことである。
地区総体でおこなわれるバレーボールの試合を応援するため、隣町にある中学校へ行った。
観戦中に尿意を催してきた千草は会場を抜けだし、体育館の片隅にあるトイ レに向かった。だが、中では不良とおぼしき女子生徒たちがたむろしていて、用を足すことができなかった。
仕方なく校舎のトイレに向かって廊下を歩き始めると、引き戸が半分開いた 教室の中から「くあつくあつくぁっ」と妙な声が聞こえてくることに気がついた。
何気なく覗いてみたら、教室のまんなか辺りの宙に灰色の衣装を纏った女が 浮かんでいた。長い黒髪をぼさぼさに振り乱した、どことなく鼠を思わせる鼻面の長い女である。
服の作りは着物に似ていたが、よく見ると新聞紙でできていた。蟻のように 小さな文字と雑多な見出しが服の表にびっしりと鏤められている。
蒼くなってやり過ごそうとしていたところへ、女が「くぁつくあつくあっ」 と鳴きながらこちらに顔を向けてしまう。急いで廊下を歩きだしたのだけれど、声は少し離れた背後から「くぁつくあつくあっ」とついてきた。
仕方なくトイレは諦め、校舎の中を大きく迂回しながら体育館まで戻ったのだという。
#9 能面お化け
中学三年生の一学期、千草は修学旅行で京都へ出掛けた。
宿泊先は市内の一角に構える、二階建ての古寂びた旅館。部屋は二階に位置 する大部屋で、それぞれ八人程度の生徒が同じ部屋に寝泊まりした。
二日目の晩、同室の女子たちがふとした弾みから怖い話をすることになった。
千草も誘われたのだけれど、下手なことを話して嘘つき呼ばわりされるのも嫌だったので、「眠い」と言って断った。
他の女子たちはずらりと敷かれた布団の上で車座になり、部屋の電気を消し て話を始めた。彼女たちが語る怖い話を布団に包まりながら聞くともなく聞 き、見るともなしに見ていると、そのうち部屋の隅に余計な人影がひとつ増えていることに気がついた。
ちらりと視線を向けた部屋の隅には、茶色い面を被った人物が正座をして座っていた。
身には暗く沈んだ紫色の着物を纏っている。小柄な背恰好や、頭のうしろで 丸く結わえた灰色の髪などから見て、老婆のようだと思ったが確証はなかった。
顔に掛けられた面はぎょろりと開いた双眸に、黄色い歯を剥き出しにした恐ろしい形相で、作りを見ると能面の一種のように感じられた。
老婆は車座になって盛りあがる女子たちの様子を微動だにせず、ただじっと 見つめている。怖い話に呼び寄せられて来たのかな、と千草は考える。
早くやめればいいのに・・・・・・と思いながら女子たちの様子をうかがっている と、車座を囲む女子のひとりも、いつのまにか茶色い面を被っていた。
紫色の着物を纏った人物からちょうどまっすぐ前方の位置に座る女の子で、 仮面の造りは背後に座る人物のそれと同じものだった。本人は元より、他の女 子たちも彼女の顔が仮面に覆われていることに気づいていないようである。
怖い話は一時間半ほどで終わった。話が終わる頃には紫色の着物を纏った人 物も姿を消し、女子の顔を覆っていた面もいつのまにか消えていた。
みんな、何事もなかったかのように「怖かったねえ!」などとはしゃいだ声 をだしながら布団に入った。部屋の中が静まり始める頃、千草も深い眠りに落ちていった。
翌朝起きると、仮面に顔を覆われていた女子がひどい高熱をだしてうめいていた。
頻りにうわ言のようなことも口走るので、市内の病院に救急搬送されることになる。
その後、彼女は二週間近くも京都の総合病院に入院したのち、ようやく地元に帰ってきた。発熱の原因は不明だったが、熱をだして臥せっている間の記憶 はほとんどないという。
あとで千草が調べたところ、件の仮面は「怨霊の面」と呼ばれるものだったそうである。
#10 神殺し
千草が高校二年生の夏休み。ある晩、同年代の男女五名で、心霊スポットとして知られる山中の廃ホテルへ肝試しに出かけた。
深夜一時過ぎ、先輩の男子が運転する車で現地に着いた一同は、持参した懐 中電灯を携え、眼前に聳える荒れ果てたホテルの中へさっそく足を踏み入れた。
真っ暗闇に染まったフロントを通り抜け、食堂や事務室、客室などを順番に 探索していく。そのさなか、千草は周囲のそこかしこに白い人影がちらつくの を目にし続けていた。
ああ、やっぱりこういうところにはいるんだなあ・・・・・・。
そんな感想を心の中で漏らしながら、ホテルの中を一頻り巡り歩いた。やは り白い人影はあちこちで目にしたが、見えるばかりで特にそれ以上、怪しいことが起こることはなかった。
ところが探索を終えた帰りの車内で、異変が起きた。
後部座席で千草の隣に座っていた女の子が突然、けだものじみた奇声をあげ て暴れ始めた。女の子は背中を弓なりに仰け反らせ、白目を剥いて叫び続ける。
千草を始め、他のメンバーがどれだけ声をかけようと、正気を取り戻す気配 はなかった。
彼女の豹変に肝を潰した先輩はそのまま急遽、地元の有名な霊能者宅へハンドルを向けた。
夜もだいぶ遅い時間だというのに、事情を説明すると霊能者はすぐに門戸を開いてくれた。正気を失った女の子を先輩ともうひとりの男の子が担ぎあげ、 おおわらわで車から降りる。
みんなで家の中へ足を踏み入れようとした時だった。
「待て。あんたは駄目だ」
玄関口に突っ立つ白髪頭の年老いた霊能者の男性が、厳めしい声でつぶやいた。
一同、誰のことかと顔を見合わせ、霊能者が向ける視線の先を確かめる。
鋭い目つきで彼が見据えていたのは、千草の顔だった。
「神殺しを中に入れるわけにはいかん」
満面に険しい形相を拵え、霊能者の老人はドスの利いた低い声で言葉を続けた。
千草は「分かりました」と応え、車の中で待つことにする。
老人は相変わらず奇声をあげて騒ぎ続ける女の子を中に入れるよう、男の子たちに促すと、そのまま踵を返して家の中へと消えていった。
家内に担ぎこまれた女の子は、わずか数分ほどで容態が回復した。
心底ほっとした面持ちで次々と車へ戻ってくる仲間たちを眺める傍ら、ふと視線を感じて顔を向けてみると、老人が再び玄関口に立って千草の顔を睨み据えていた。
老人は車が門口を抜けだし、千草の姿が完全に見えなくなるまでの間、射貫くような鋭い視線で睨み続けていたという。
千草が全てを語り終えた頃、戸外はすでに薄暗くなり始めていた。
天から滴る雨は豪雨となって爆雷のような音を響かせ、絶えることなく降り荒んでいる。
千草は他にも、中学時代に放課後の教室で老婆の生首を目撃した話。高校時代、友人宅の居間にあった日本人形に話しかけられた体験など、全部でおそらく三十話近く語ったと思う。
ただ、それらの話のひとつひとつに明確な関連性は見いだせなかった。
「こんな体験をしたんだけれど、どうすればいい?」などという質問も一切ない。だから、千草がこんな余興を始めた意図がなんなのか、皆目見 当がつかなかった。
「それで、感想はどう?」
すっかり冷めきったコーヒーをごくりとひと口飲みながら、千草が私に問うた。
「ずいぶんと不思議な体験をされていることは分かりました。で、これまでのお話が今回のご相談とどう繋がるんです? そろそろはっきりとしたご説明をお伺いしたいのですが」
「いやいや、そうじゃなくて。どうだったの? 何か今回の件と絡めて感じ入 るところとか、引っかかるところはなかったのかって、訊いてんの」
私の反応に呆れたような、当惑したような色を浮かべながら、千草が再度問いかける。
「『いやいや』はこっちのほうです。謎々遊びじゃないんですよ。何をどうしてほしいのかはっきりおっしゃっていただかないと、私はなんの対応のしようもありません」
「そうそれ! 謎々よ! あたしが今まで話したことに物凄く大事なヒントが隠されてると思って! それを分かってくれたらあたし、なんでもきちんと説明するから」
私が何気なく口走った「謎々」という言葉に飛びつき、千草が興奮気味に捲くし立てる。
一方、私のほうは先日の芹沢真也との一件を思いだし、頭がむかむかし始めていた。
「それは要するに、私を試すということですか? そういう話でしたらあいにくなんですが、付き合いきれません。謎々を解くのが拝み屋の仕事ではありま せんから」
こちらの力量を悪戯に測られているような気がして、大層気分が悪かった。
「拝み屋としての私の素養に疑いを持たれるのでしたら、どうぞ他の御方をお探しください。幸いにも東北は拝み屋関係の本場ですからね。地元に同業者はごまんとはいるはずです」
「あ、ごめん。そういう意味じゃないの。別に郷内さんのことを疑ってるわけ じゃないわよ? そうじゃなくて、あたしは郷内さんのことを心配して、こういう流れにしているの」
思わず「はあ?」と声をあげ、床から尻が持ちあがる。
もはや限界だった。縁の浅い相談客から無闇に心配される筋合いなどない。
「申しわけありませんけど、これで失礼させていただきます」
持参した鞄を乱暴に引っ掴むと私は居間を出て、玄関口へ向かってずかずかと歩きだした。
「母様よ」
私の背中に向かってひと言、千草が凜と透きとおった声を発した。
「なんですって?」
その声の響きがあまりにも鮮烈だったので、ほとんど反射的に振り返ってしまう。
「あたし、この家に隠してるものがある。母親はそれを狙ってここに来るんだ と思う」
「だから、話が見えません。どういうことなんです?」
「もしも郷内さんがきちんと理解してくれるなら、処分をお願いしたいの。自分でやれば? って思われるかもだけど、あたしにそんな力なんかない。それ にね、あれを処分することができたら、あたしのお母さんもきっと楽になれると思うんだ」
思わず振り向いてしまったことに心底げんなりさせられた。やはり意味が分からない。
ぶっきらぼうに「失礼します」と頭をさげ、玄関ドアを力任せに開け放つ。
「これもヒントだからね! 気を悪くするの、分かってて言った! お願い、 気づいて! うちに帰ったらもう一回、じっくりあたしの話、思いだしてみて!」
信じてるから!
千草の叫びに返事すらせず、土砂降りの戸外へ飛びだす。門口に停めた車に乗りこむなり、あとは脇目も振らず千草の家をあとにした。
もう二度と来るものかと、心に固く誓いながら。
月に歌う 【昭和六十年九月某日】
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椚木の家に嫁いでから三年目の昭和五十七年に、わたしは長女を授かりました。
同じく、その二年後には待望の長男が生まれております。
一方、わたしが長女を授かる前年の昭和五十六年夏。上の義妹が家を出ていきました。
くわしいいきさつは分かりませんが、絶縁という形だったそうです。事実、 この年を境に上の義妹が椚木の家に戻ってくることは、二度とありませんでした。
また下の義妹も、上の義妹が家を出た翌々年の昭和五十八年暮れに独立。その後の数年は実家に全く帰ってこない状態が続きました。
こうしてふたりの義妹が家を去り、ふたりの子供が生まれたことで、椚木家は過不足なく、また元の数の五人家族に落ち着いていたのです。
長女が三歳になった年、昭和六十年の九月頃だったと思います。
その夜もわたしは、あの黒い獣たちの咆哮に目を覚まし、布団の中で震えて おりました。ですがこの夜は折悪しく、わたしは時間が経つうちに尿意を催してきてしまったのです。
例によって武徳の姿は寝室にありませんでした。傍らにはふたりの子供たち がすやすやと静かな寝息を立てて眠るばかりです。
余談となりますが、出生以来どちらの子供も、この真夜中に猛り狂う咆哮に 怖がることは、ただの一度もありませんでした。幼子ですから、深夜にむずか って目覚めることはあります。けれどもそんな時に、たとえ戸外からどれほど 凄まじい絶叫が届いてこようと、子供たちは戸外に耳を澄ますでも怯えるでも なく、まるで無関心なようなのです。
どうやら武徳や他の家族たちと同じく、ふたりの子供たちもまた、この底知れぬ大絶叫が聞こえていないようなのでした。やはりわたしだけがおかしいのだという、新しい証です。
下腹部にじわじわと刺しこむ鋭い痛みを懸命に堪えながら、その後もしばらく、わたしは布団の中でじっと我慢をしておりました。
ですがとうとう、我慢の限界を迎えてしまいます。
飛びだすように寝室を抜けだすと暗い廊下を駆け足で渡り、トイレの中へ駆 けこみました。静まり返った深夜の廊下やトイレには、寝室よりもはるかに大 きく、獣たちの不穏な叫びが木霊してきます。わたしはがくがくと膝を笑わ せ、耳を塞ぎながら用を足しました。
おおわらわで用を足し終え、再び駆け足で寝室まで戻ろうとした時です。
獣たちの咆哮に紛れ、ふいに私の耳へ綺麗な女性の歌声が小さく届いてきました。
それはわたしが生まれてこのかた、一度も聴いたことのない世にも美しい歌声でした。
まるでソプラノ歌手のような音域の高く、一点の淀みすら感じさせない底抜けに澄んだ声。曲調は漠然とオペラのアリア、特に『蝶々夫人』の第二幕で 歌われる『ある晴れた日に』を彷彿させる叙情的で、胸の奥底が揺さぶられる調べです。
ただし、歌声に乗せて紡ぎだされる言葉は、わたしがまるで聞いたことのない言語でした。判別できる言葉がひとつもないので、異国の言葉というのはおそらく間違いないと思います。でもそれがどこの国の言葉であるのかは、まるで見当がつきませんでした。
獣たちの叫びからつかのま神経を遠ざけ、歌声に集中して耳を澄ましてみます。
すると、歌声は戸外ではなく、どうやら家の中のどこからか聴こえてくるようなのでした。
寝室へ向かってゆっくりと廊下を戻りながら、歌声の所在をさらにくわしく探ります。
澄みきった歌声が大きくなるほう、大きくなるほうへ進んでいきますと、ようやく歌声の出どころが分かりました。
屋敷の二階。それも二階の天井裏でした。玄関口の正面に伸びる、二階へ続く古びた階段。歌声を追って階段の前に立つと、歌声はわたしのはるか頭上から聴こえてきたのです。
わたし自身は入ったことがないのですが、天井裏は古びた家財の物置として使われており、常は義母の百合子が鍵をかけて管理をしておりました。
天井裏は施錠されているはずですから、中に誰かがいるとしたら、それは鍵を持っている百合子ということになります。しかし、声は百合子のものではありません。
そもそもこの晩、百合子は武徳と一緒に豚舎で母豚の分娩に立ち会っているはずでした。こんな夜中に母家へ戻り、天井裏で歌を唄うことなどあるはずがないのです。
ただそうは言っても、この素晴らしく美しい歌声は、間違いなく天井裏から届いてきます。不思議と怖いと思う気持ちはまったくありませんでした。
そればかりかわたしは、いつのまにか戸外で高く吠え荒ぶ獣たちの声すらもすっかり忘れ、しばらく陶然とした心地で、この不思議な歌声に夢中で聴き入ってしまったのです。
翌朝、朝食の席でわたしは、武徳と百合子にこの歌声の件を語りました。
不気味な獣たちの声については、やはり何度話しても無下にあしらわれておしまいでした。ですからこの頃は、いちいち口にだすことさえなくなっておりました。
ですが、あの綺麗な歌声については話が別だったのです。あの得も知れない、無心で耳を傾けていると、胸の内に大輪の花が次々と開くような感覚。こんな素晴らしい体験、誰かに話さずにはいられない。そう思えてわたしは仕方がありませんでした。
とは言え、どうせまともに取り合ってなどくれないだろう。
内心、覚悟はしていたのですが、それでもわたしはできうる限り事細やか に、昨夜自分が体験した一部始終をふたりに語り聞かせたのです。
ところが、夢物語のようなわたしの話を聞いた百合子の反応は、ひどく意外なものでした。
わたしが話を終えた、まさにその瞬間です。
百合子は食卓から無言ですっくと立ちあがるなり、わたしの頬を思いっきり張りました。
「家の中をこそこそ嗅ぎ回るんじゃない。この雌豚」
能面のような面差しでひと言吐き捨てるなり、百合子はそのまま自室へ戻っていきました。
突然の驚きと恐怖に、わたしは堪らずその場に「わっ!」と泣き崩れてしまいました。
一方、食卓に残された武徳はそんなわたしの姿を見ようが、慰めるでも心配 するでもなく、ただ黙々と朝食を掻きこむだけでした。
思えばわたしに対する百合子の態度が一変したのは、この日を境にしてのことでした。
それまでの柔らかな物腰と口調が露骨に刺々しいものとなり、些細なことで 詰られたり、怒鳴られたりすることが頻発するようになりました。
また、日頃の暮らしにおけるわたしの動向を監視するような素振りさえもしばしば見られ、わたしはなんとも居心地の悪い、針の筵のような生活を余儀なくされてしまったのです。
件の歌声に関してはその後、急速に興味を失いました。
あれはきっと百合子のものなんだ。
そんなふうに思い做すと、もう二度とあんな歌声になど関わりたくなくなったのです。
冤罪 【平成十七年七月二日】
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湿気混じりの熱気が肌にじわじわと蝕むように染みこむ、大層不快な昼下がりだった。
園子さんという独り暮らしの若い女性から、こんな相談を持ちかけられた。
「一体何が起きているのか、わたし自身にもさっぱり分からないんです・・・・・・」
昨年の冬、園子さんの母親が大病を患った末に亡くなった。
名を紀子さんという。まだ四十をわずかに過ぎたばかりの、あまりにも早い旅立ちだった。
頑是ない頃から母ひとり、娘ひとりで育てられてきた園子さんにとって、紀子さんの死は今後の人生をがらりと一変させる転機となった。
紀子さんの死後、真っ先に問題となったのは、今後の生活だったという。
紀子さんが亡くなるまで、園子さんは市街のマンションに母娘ふたりで暮ら 高校を卒業後、園子さんはなかなか希望する職に就くことができず、アルバイトの収入で家計を助けてきた。だがその収入は、ごくごく微々たるものだった。当然ながら紀子さんの亡きあと、園子さんひとりの収入で生活を維持することは困難だった。
加えて園子さんには、身寄りとなる親戚が誰ひとりとしていなかった。
亡くなった紀子さんの意向により、父親の所在はおろか、名前すらも知らされずに育ち、母方の親類とも全く付き合いがなかったのだという。
紀子さんの白箇日をつつがなく済ませたのを契機に、園子さんは住み慣れたマンションを引き払い、市街から遠く離れた田舎町に新しい住まいと勤め先を見つけた。
入居したのは、長屋形式の古びた平屋建てのアパート。
1Kの手狭な間取りだったが、独り住まいには十分な広さだった。また、南向きの窓から射しこむ光がとても心地よく、何より家賃が格安だったのがありがたかった。
引越してからすぐ、部屋の片隅に置いた洋服ダンスの上に紀子さんの位牌と写真を供えた。寂しい時には手を合わせながら、声をだして語りかけた。
長屋暮らしが始まってひと月ほどが過ぎた、今年の五月半ばのことだった。
仕事の帰り道、園子さんは商店街の花屋の軒先に並んだ色とりどりの花々に 目を奪われる。晩春の健やかな日差しを浴びて力強く育つ花々は、園子さんの 胸を締めつけるほどに美しく、凛々しく映って堪らなかった。
加えて花を目にして心が揺さぶられるなど、園子さんの中には久しくなかっ た感情だった。ようやく母の死から立ち直り、新しい生活にも慣れてきたのだ という実感も湧いた。
もっと身近にずっと、花の生命を感じていたい。陰っていた心は、さらに光を取り戻す。
陽当たりのよい自室の窓の外には、ちょうど猫の額ほどの広さの庭があった。 思い立つと居ても立ってもいられず、その場で思いつくままに好みの花を買い求めた。
庭には花壇がなかったので、プランターも一緒に購入した。木樽を半分に 割って横向きに寝かせたデザインのものが可愛らしかったので、プランターは それにした。
帰宅後、窓のすぐ外にプランターを置いて、寄せ植えを作った。極彩色の花 弁を開かせた花たちを窓辺から眺めていると、それだけで気分が華やいだ。
それから数日後のことだった。 仕事を終えて園子さんがアパートへ帰宅すると、長屋の玄関前に見知らぬ中年女性が四人、自分の帰りを待ち構えるようにたむろしていた。
園子さんが近づいても女たちが動く気配はない。声をかけるとリーダー格と おぼしき女が、険しい顔で突然こんなことを切りだした。
「あんた、図々しいにもほどがあるよ。こんなことして、人として恥ずかしくないの?」
女たちは、地元の自治会で結成された園芸クラブのメンバーだと名乗った。 当惑しながら話を聞いていると、鋭い口調で「プランターを返せ」と迫られた。
数日前、園芸クラブが管理をしているプランターがひとつ、なくなったのだという。
彼女たちが語るプランターというのは、園子さんにも覚えがあった。近所の 交差点付近の歩道沿いにずらりと並べられたプランターのことだろうと察する。
女たちは、そのなくなったプランターを盗んだのが園子さんだと言って譲らなかった。
彼女たちが管理をしていたプランターは、半分に割った木樽の底に足をつけたものだった。園子さんの買い求めたそれと同じ規格の物ではある。
しかし、とんだ濡れ衣だった。刺々しい目つきで自分を睨みつけてくる女たちに向かって、園子さんはプランターを買った店や日にちなどを細かく説明し、ただちに身の潔白を訴える。
それでも女たちが片意地を張り続けるため、わざわざ部屋に戻ってプランターを購入したレシートまで提示してみせた。
この段に至ってようやく、女たちの顔にバツの悪さのような色が表れ始める。
だが、それでも女たちはなおも園子さんを口汚く罵った。
「そんなものを見せられたって、プランターがなくなったのは間違いない」
「うちの地元は昔からみんな仲がいい。今まで泥棒騒ぎなんか一度も起きたことがない」
「どんなに誤魔化しても、犯人はあんたみたいなよそ者に決まっている」
ほとんど負け惜しみのような言いがかりを口々に並べ立てたあと、
「そんなに欲しいならあんなプランター、くれてやる」
心ない捨て台詞を最後に、女たちは玄関前からいそいそと踵を返していっ た。
その晩、園子さんは紀子さんの位牌を前に、声をあげて目を泣き腫らした。
せっかく自分ひとりの力でがんばり始めたところなのに。自信がついてきたところなのに。
母の死からようやく立ち直り、新しい人生を生きていこうと決心した矢先のことである。
悔しくて悲しくて、どれほど泣いても涙が止まることはなかった。
「わたし、花が綺麗でかわいかったから、自分のお金で買っただけなんだよ? お母さんも花が大好きだったから、庭に飾れば喜ぶと思って買っただけなん だよ? なのになんなのよ、わたしが何をしたっていうのよッ!」
どれほど声を張りあげ泣き続けても、気分は少しも晴れなかった。
母を失い、天涯孤独の身となり、縋りつける者は誰ひとりなく、たった独りで生きる道を探してがんばって、ようやく「大丈夫」と思えるようになってきたところだったのに。
今まで必死に抑えこんでいた感情が、一気に壊れたような感覚だった。
「あんな奴ら、みんな死んでしまえばいい。みんな死んでしまえばいいのよ・・・ ん・・・・・・」
両手を位牌に向かって、すっと拝み合わせる。
「みんな、罰が当たって死ねばいい。そう思うでしょう? 救けてよ、お母さ ん・・・・・・」
気がつくと母の位牌を前に、いつしか暗い祈りを捧げる自分がいた。
その二日後だった。
仕事帰り、いつもの通勤路を歩いていると、前方の路上にパトカーと救急車が見えてきた。路肩には鼻先のひしゃげた軽自動車も斜めに停まり、周囲には 黒山の人だかりができている。一見して交通事故だと分かった。
見るとはなしにその喧騒を横目に、自宅へ向かって歩き続ける。
現場の前を通り抜ける刹那、視界の端に飛びこんできた顔に園子さんは思わ ず「あっ」と小さく声を漏らした。
「お母さん!」 救急隊員の手で担架の上に乗せられていたのは先日、プランターの件で因縁 をつけてきた、あの園芸クラブのリーダー格だった。
女の顔面は、左半分の肉が鬼おろしで磨りおろされたかのようにぐしゃぐ しゃに掻き乱れ、毛羽立った肉の間から真っ赤な鮮血がどくどくと噴きだしていた。
わたしがあんなことを頼んだから・・・・・・。
二日前、母に向かって捧げたあのどす黒い祈りが、脳裏にまざまざと蘇った。
翌日、事故のあった現場には献花が供えられていたという。
「異変が起きたのがこの件だけなら、悪い偶然が起きたんだと割り切ることもできたんです。でもこれは偶然じゃなかったし、終わりじゃなくて始まりでもあったんです」
それからさらにひと月後の昼、今度は勤め先の近所の民家で火事があった。
なんとも言えぬ胸騒ぎを覚え、野次馬根性で見に行った同僚に尋ねてみる と、焼け跡から女性の遺体が搬送されていたという。亡くなったのはその家の 嫁らしいと聞かされた。
「ちょうどその頃、同じ長屋に独り暮らしをしているお婆ちゃんと親しくなっ たんですよね。昔から地元にいらっしゃる方なので、それとなく訊いてみたん です」
やはり火事で焼死したのは、園芸クラブのメンバーだったという。
一度ならず二度目ともなれば、さすがに偶然とは思えなくなった。
とんでもない祈願をしたと後悔し、たちまち顔が蒼ざめる。血相を変えたま ま帰宅すると、園子さんは紀子さんの位牌に向かって瞑目し、再び一心不乱に 手を合わせた。
「ごめんなさい、お母さん。わたしが弱かったね。バカだったね。あんなこと をお願いして、お母さんを苦しめることになってしまったね。もう大丈夫だか ら、向こうで楽しくしていて。笑顔でわたしを見ていてね。わたしがお母さん にお願いするのはそれだけだから・・・・・…」
懸命に言葉をかけていると、前方からふいにぽん、と両肩に手がのる感触があった。
「お母さん!」
はっとなって声をあげる。
目蓋を開いた眼前には、白髪頭を生え散らかした、見たこともない老人の顔 があった。
悲鳴をあげて身を引こうとしたが、両肩をがっしりと掴まれ、身体が動かな かった。
浅黒い肌をした、四角く骨ばった顔の老人だった。
目はどんよりと薄曇り、園子さんの目を一点に見据えている。口元には引き 攣ったような笑みが浮かんでいたが、目元は笑っていなかった。
しわだらけの顔に浮かぶおぞましい形相に慄き、園子さんはそのまま意識を 失ってしまう。
再び気がつくと、すでに老人の姿はどこにもなかった。だが、警戒しながら 周囲に視線を泳がせ始めてまもなく、再び口から悲鳴があがる。
写真立てに収まる紀子さんの遺影が細かく無数に引きちぎれ、ガラスの中で見るも悲惨なモザイク模様を作っていた。
「それからまた二週間ぐらい経って、今度は近所の神社の境内で首吊り自殺が あったんです。長屋のお婆ちゃんに訊いたら、やっぱり園芸クラブの人だっ たって・・・・・・」
プランターの件で言いがかりをつけてきた園芸クラブのメンバーは、残りひとり。
目から大粒の涙をこぼしながら、園子さんは「なんとか止めてください」と懇願した。
件の老人はその後、園子さんの前に再び姿を現すことはない。
ただ、未だに老人が何者であるかは、まるで心当たりがないのだという。
守護霊 【平成十七年七月二十四日、二十九日】
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甚だ不謹慎ながら、大木のような女だと思った。
仕事場の中央に置かれた座卓。私の対面に座っているのは、目測で身長一八○センチほど。体重は優に白キロ以上はありそうな、寸胴体型のそれは太くて 大きな女だった。
彼女の名は、黒岩朋子。四十代前半で離婚歴あり。現在無職の身である。
朋子は三年前の夏頃から小学校低学年になる娘の春奈と一緒に、元は母親の麻子が独りで暮らしていた実家の世話になっている。
加えてふた月ほど前からは、家の二階に宛がわれた自室に引き籠っているのだという。
この日は朋子の他にも、麻子と春奈も同席していた。今現在に至る朋子のくわしい経緯は、自身の弁によるものではなく、麻子の説明によるものである。
朋子の着ている白いTシャツは、食べこぼしとおぼしき赤や茶色の大きな染 みが散らばり、奇妙な斑状を描きだしていた。皮脂でどろどろに光る長い毛髪 には、パルメザンチーズでもふりかけたかのような大量のフケが、万遍なく噴きだしている。
引き籠りと言われれば、確かに納得のできる風采である。
「○さんがわたしに『救けてほしい、救けてほしい』と何度も頼むんです」
挨拶もそこそこに朋子は勃然と口を開き、こんなことを口走った。
いろいろと弊害がありそうなので名は伏せるが、○というのはその昔、非業 の死を遂げた某有名ミュージシャンの名前である。
朋子自身が語るには、ふた月ほど前からその○が朋子の守護霊になったのだという。
○は当初、様々な助言を朋子に授けた。仕事に関する進退、娘の教育方針、親との接し方。言われるがままに朋子はその都度助言に従い、道が拓けてきた のだと語る。
「それが二週間ぐらい前から、○さんの様子が変になってしまったんです。なんだかとても悲しそうな顔をしてわたしをじっと見つめるんです。『どうしたんですか?』って訊いても、最初は何も答えてくれなくて・・・・・・。わたしもずっと心配していたんですけど、先週になって突然、わたしにこんなことをお願いしてきたんです」
自分自身の死にまつわる、公に報道されなかった真実を朋子に公表してもらいたい。
朋子曰く、それが のお願いだった。
「○さんはご自分が亡くなるまでに至る経緯を、毎日細かくわたしに教えてくれるんですよ。わたしも一生懸命書き起こしているんですが、完成した手記を どこに持っていったらいいか分からなくて、今ちょっと困っているんです。ど うすればいいのでしょうか?」
いかにも物憂げそうな色を目の奥に浮かべ、朋子が私へ質問を投げかける。
けれども私のほうは、返答に窮してしまう。
二の句が継げず口ごもっていると、朋子が勝手に話を進めた。
「それに正直なところ、迷ってもいるんですよ。○さんは自身の死にまつわる 真相を世間に公表したいと切望しているんですが、他の方々はそれをあまり良 く思っていないみたいで」
他の方々 と言うので、初めは家族が反対しているのだと解釈したのだが、違った。
「たとえばMさんは、『あなたの身に降りかかる危険が大きいからやめたほうがいいわ』と心配されていますし、Iさんも『駄目だッ! 駄目だッ!』と渋 い顔をして反対するんです。わたし、もう本当にどうしたらいいのか分からな くって・・・・・・」
朋子が心持ち、自慢げに名をちらつかせたMというのは、昭和を代表する某人気演歌歌手。1のほうはその昔、国民的人気を誇った某大物コメディアンの 名前である。
「そんなのは問題じゃないでしょう。本当に何言ってんのよあんた。しっかりしなさい」
気恥ずかしさと苦々しさが綯い交ぜになったような表情を浮かべ、麻子が口を挟んだ。
「この人、もうずっとこんな調子なんです。○さんに言われたからって仕事も辞めちゃって、育児も家事も全部丸投げです。ただの言い訳なんですよ。自分 が怠けたい口実なんです」
まるで密告するかのような口ぶりで麻子は語るが、私の答えは違った。
荒唐無稽な言動や荒んだ風貌から推し量って、彼女はおそらく心の病を患っているのだ。私の立ち入る領域ではない。専門医による診察と治療が必要な、 極めて繊細な案件である。
おそらく当人が“守護霊”などという言葉を使うから、麻子が無理に引き連 れてきたのだ。麻子自身も「拝み屋に見せればなんとかなるかも」という望みがあったのかもしれない。
ただ、人間ひとりの将来と健康に関わる大事な問題で、嘘をつくわけにはい かなかった。「大変申しあげにくいことなのですが・・・・・・娘さんは然るべき機関にお診せするのが最良だと、私は思います。きっとよくなるはずですから、そちらを強くお 勧めします」
なるべく当人たちを傷つけないよう、オブラートに包んで提言する。
麻子は一瞬固まったのち、「やっぱりそうですよね……」と、力なく同意した。
「でもわたしはね、やっぱりOさんの本を出版したいと思うんですよねっ!」
一方、朋子のほうは母親の心境などお構いなしに、再び口を開いて憤る。
「あんたはもういいから、大人しくしていなさい。明日、母さんと一緒に病院に行こう」
そっと説き伏せるように麻子が朋子に提案する。だが、朋子は全く聞き入れない。
「何言ってんの、病院なんて行かないわよ! わたしのどこが悪いっていうの!」
「あんたのそういう気持ちの浮き沈みの激しさとか、素行に言動。何もかも全部じゃないの。前はそんなじゃなかったでしょう? とにかく明日は一緒に病 院に行こう」
宥めるように麻子が朋子に訴えるも、逆効果だった。
朋子の心はますます乱れて猛ってしまい、「自分には神から与えられた特別 な力がある」「わたしは選ばれた人間なのだ」などと大きな声で喚き始めた。
「お母さん、違うでしょう! お母さん、違うでしょお!」
我を失くしてがなり散らす朋子の腕に幼い春奈がしがみつき、一生懸命制し始める。
「わたしが言ってることは本当なんだから! 本当にいるの! OさんもMさんもIさんもみんなみんな、わたしを心配して見守ってくれてるのよ!」
「お母さん、違うよお! お母さん違うう!」
激昂する母親に必死になって縋りつく春奈の姿が、不憫に思えてならなかった。
その後、数分間にわたって猛ったあと、朋子は麻子に半ば羽交い絞めにされ るようにして仕事場を退室していった。あとにひとり取り残された私は、庭先 から出る車のエンジン音を、憮然としながら聞くしかできなかった。
それから五日後の午前中、私は黒岩家を訪問する運びとなった。
前日に麻子から電話をもらい、一度自宅をくわしく見てもらったうえで、先祖供養をしてほしいと頼まれたのである。 私は電話口で、自宅の鑑定も先祖供養も、朋子自身の問題とは直接関係ないと答えた。
しかし麻子は麻子で、朋子の問題とは関係なく、自宅になんとも薄気味の悪い気配を感じることが最近多いのだという。「娘の相談とはあくまでも別件扱い」という条件つきで、私は渋々ながら母親の依頼を引き受ける次第となった。
黒岩家は市街の住宅地に立つ、ごくありふれた構えの一軒家だった。
玄関口のチャイムを鳴らすと、麻子と春奈が迎えてくれた。折よくこの日、 朋子のほうは〝守護霊〟たちに「散歩に出よう」と誘われたらしく、朝から不在なのだという。
「あのあと、やっぱり病院は嫌だと言い張って、ずっと機嫌が悪いままなんです」
皺だらけの顔に憔悴の色を深々と滲ませ、ため息混じりに麻子がこぼした。
「それでも本人もなんとなく、バツが悪くなったんでしょうね。ここ二、三日は家の中と外を出たり入ったりして、まるで落ち着きがないんです」
「デリケートな問題ですから、じっくり取り組んでいくしかないでしょうね」
およそなんの救いにもならない助言を短く伝えたあと、私は麻子と春奈に先導されながら、家内を一通り回って歩くことになった。
「とにかく、どこということなく家の中が薄気味悪いの。なんだか気も滅入ってきますし」
いかにも暗い面持ちで麻子はそんなことを言ったが、おそらく逆だろうと思った。
家の中の雰囲気が薄気味悪いから気が滅入るのではない。娘に関する問題で毎日頭を抱え、気が滅入っているからこそ、家内の雰囲気まで重々しく、薄気 味悪く感じられるのだ。
実際、家の中をじかに歩き回っても、母親が訴えるような気味の悪さは感じ られなかった。いたずらに同調してもなんの解決にもならないため、ひとしきり回り終えたら依頼どおりに先祖供養をさせてもらい、早々にお暇しようと考えていた。
「ねえ、こっち。こっちだよ」
二階へ続く階段を上がったところで、春奈が私の手を引いた。誘われるまま 歩いていくと、廊下の突き当たりにある閉ざされたドアの前にたどり着いた。
「ここが娘の部屋なんです。わたしの家ですから別にかまいません。見ていただけますか?」
私の背後から麻子が言う。それを受け、春奈がおもむろにノブを握って回した。
ドアが開け放たれた瞬間、汗の饐えたような臭いと果物が腐ったような甘ったるい臭いが、鼻腔をつんと突き刺した。むっとなって顔をしかめつつ、部屋の中を見回す。
八帖ほどの洋室には、薄茶色に変色した万年床を中心にして、脱ぎ散らかした衣類の山やスナック菓子の空き袋、半分飲みかけたペットボトルなどが部屋一面に散乱していた。
戸口から顔を突っこんで部屋の中を見るさなか、ふいにぎょっとなって仰け反ってしまう。
部屋の隅の開いたクローゼットの中から、白い着物姿の女がこちらをじっと 見つめていた。女は吊りさげられた衣類の隙間に直立し、にやにやと薄ら笑い 薄笑いを浮かべている。
女は頭のうしろに長い黒髪を乱雑にまとめ、顔色は寒々しいまでに蒼白に染 まっていた。
蒼ざめた肌の上には細長いひびがびっしりと刻まれ、顔全体に薄笑いの波を描いている。
白い着物は胸元がだらしなく崩れ、青白く光る首筋から鎖骨の辺りまでは露になっている。
よく見ると、女の顔は高島千草のそれだった。
どうしてこんなところに千草がいるのだろうかと思う。
「お母さん見てるの、あれ」
傍らに佇んでいた春奈が、クローゼットの中を指さしながらぽつりとつぶやいた。
「何やってんだよおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!」 そこへ突然、どたどたと階段を駆けあがってくる足音とともに、背後から凄 まじい怒声が炸裂した。はっとなった次の瞬間、襟首をぐっと掴まれ、うしろに大きく引っくり返される。
振り返ると鬼のような形相をした朋子が、私の襟首を掴んで仁王立ちになっていた。
「さあぁぁっさと出てけぇええええええええええええええええ!」
獣じみた叫び声を放つや、朋子はほとんど突き飛ばすような勢いで私の背中を押した。
為す術もないまま、おわわわわで階段を駆けおり、玄関口まで一気に戻る。
同時に、一階でばん! と力任せにドアが閉められる音が聞こえた。
「あ、すみません。こんなに早く帰ってくると思わなかったもので……」
続いて麻子と春奈がばたばたと急ぎ足で階段をおりてくる。
今にも泣きだしそうな顔で、麻子がぺこぺこと頭を下げる。
手早くお詫びが済むと、麻子と春奈は矢のような勢いで再び二階へ駆け戻っていった。
いくらのまも置かず、二階の奥からまたぞろ朋子の激しい怒声が響き始める。
所在を失ってしまった私はどうすることもできず、半ば放心しながら逃げるような勢いで黒岩家をあとにした。
帰りの車中、先ほど垣間見た光景を頭の中に復元する。
時間にすればおよそ数秒。ほんの一瞬の間の出来事である。
だがその一瞬のうちに私の目は、眼前に映った光景を脳へとしっかり焼きつけていた。
間違いなく、あれは千草だった。
和装姿のうえ、頭髪も茶髪にあらず、真っ黒ではあった。
顔色も蒼ざめ、皺だらけになった面差しは、当人よりも幾分萎れた印象を抱かせた。
けれどもそれらの骨子となる顔の作りそのものは、紛れもなく高島千草のそれだった。
あまりに唐突な状況での邂逅で、事態の把握はおろか、気持ちの整理すら満足につかない。頭が混乱してくる。何が起きたのかさっぱり理解ができなかった。
その後も自宅に向けて車を走らせながら、何度も女の顔を思い返しては悩み悶えた。けれども結局帰宅するまで、私の中に答えらしい答えが出てくることはなかった。
月に滅する 【平成四年八月十六日】
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長女が十歳になった年のことです。ちょうどお盆の入りの日のことでした。
夕方、門口で迎え火を焚いているさなか、傍らにいた娘がふと、こんなことを言いました。
「お父さん、もうすぐいなくなってしまうんだね……」
明々と燃える迎え火の焰をひどく寂しそうな目で見つめながら、娘はわたしに小さな声でそんなことを言うのです。
「バカなことを言わないで」と、わたしはすぐさま娘をたしなめます。
ただその半面、娘の発した柄突なひと言に小さな動揺を覚える自分もおりました。
娘は物心ついた頃から、しばしば妙なことをしたり、口走ったりする子供でした。
たとえば外出の際、誰もいないはずの道端や家々の軒先などに向かって、頻りに手を振る。時には「こんにちは」「うん、そうだよー」などと、奇妙な独り言を発することもありました。こんなことが日常生活の端々に散見される、そ れは変わった娘だったのです。
小学校に入学してからは、そうした傾向がますます顕著なものになってゆきました。
通学の行き帰りに「お化けを見た」などと言いだすのは、もう日常茶飯事。
ひどい時などは夜の遅い時間になっても家に帰らず、家族と身内で手分けして町じゅうを散々捜し回った末、地元のお寺の墓場の中で発見されたこともあります。
こんな時にも娘は「お化けと遊んでた」などという嘘を平然と吐き連ねるのです。
一事が万事、こうした調子だったので、この時もわたしは、いつもの娘の嘘が出たのだと割りきろうとはしました。
けれどもその一方で、なんとも言い得ぬ胸騒ぎを感じたのもまた事実です。
と言うのも、娘の虚言は時折、的中することがあったからです。
たとえば娘が四歳の頃、こんなことがありました。
当時、椚木家の隣に豚の集荷に通っていた、福山さんという方がいらっしゃいました。
五十代半ばの大変気立てのよい男性で、一家揃って懇意にさせていただいていた方でした。
ある日のこと、トラックに豚を乗せる福山さんを見ながら、娘がふいに言いました。
「おじちゃんね、もうすぐ血が出て真っ赤になるんだね……」
言い終えるなり、くすくすとべそをかきながらわたしの腕に縋りつくのです。
「そんなことを言うものじゃありません!」
当惑しながらも、わたしは泣きつく娘を叱りつけました。
ところがそれから一時間ほどして、家に電話がかかってきました。うちから出荷した豚を乗せたトラックが事故を起こしたという、精肉会社からの報せでした。
運転していた福山さんは即死。図らずも娘の発したひと言が、的中する形となったのです。
また、こんなこともありました。娘が七歳の時のことです。
夕方、わたしが台所で夕飯の支度をしていると、下校した娘がやって来ました。
娘はしばらくの間、わたしの傍らにそっと佇み、まな板の上で刻まれる野菜 などを無言で見つめておりました。けれども、やがて暗い顔をうつむかせたかと思うと、消え入るような声でぽつり とつぶやいたのです。
「律子先生ね、もうだめかもしれない……」
律子先生というのは、娘のクラスの担任の先生です。まだ二十代後半くらいの若い先生で、特に身体の加減が悪いとか、何かの持病を抱えているなどとは聞いたことがありません。
「どうしてそんなことを言うの?」と声を尖らせ尋ねても、娘は暗い顔をうつ むかせたまま、「だって、だめなんだもん……」などと答えるばかりで、まる で要領を得ません。
この時わたしは、福山さんの件を忘れておりました。「またいつもの嘘が出たか……」
と思うくらいで、さして気にも留めなかったのです。
それから二日後、PTAの電話連絡網で律子先生の訃報を知りました。病名は忘れましたが、若い世代の発症は珍しい脳梗塞の一種だと聞かされて おります。
わたしが記憶している限り、過去に二度ほどこんなことがありました。
だからこそこの時、迎え火を眺めながら発した娘の言葉に、わたしはどきりとしたのです。娘は嘘つきだけど、もしかしたらまた「当たる」のではないか と、俄かに背筋が寒いきました。
実この時、武徳とわたしは、もう長い間、不仲な関係が続いておりました。
百合子に頬を張られたあの一件以来、依然として刺々しい態度を貫き通す百合子を疎まに、わたしとしか口をきかない武徳に、わたしも心を閉ざしていたのです。
武徳もわたしのことにはまるで無関心といった様子で、日頃交わす会話すらほとんどなく、夫婦というのはもうすでに形ばかりのものになっていたような 気もします。
でも、死んでしまえばいい とまでは思っておりません。
と言うより、「あるいは彼がいなくなるかもしれない」という予感に強い恐怖 と不安を感じ、この時ようやくわたしは、まだ心のどこかで武徳を慕っていた ことに気づかされたのです。
娘の言葉など、妄言に過ぎない。予言などでは決してない。
過去に同じような事例があったとしても、それは単なる偶然に過ぎない。
こんなことでなくても年がら年中じゅう、まるで息を吐くように嘘ばかりついている娘です。際限なくつき続けた嘘の洪水が、これまたたまたま何 度か的中しただけのことでしょう。
わたしは娘に何か、特別なものを視たり感じたりする力があるなどとは思っておりません。
娘はただの嘘つきなのです。
件の獣たちが猛る声は、この当時もなお、わたしの心を壊さんばかりに轟 いておりました。なのに娘にはそんな声など、まったく聞こえていないのです。
娘が幼い頃、夜ごと聞こえる獣たちの声について、それとなく尋ねてみたこ とがあります。ですが娘は「そんな声は聞こえない」と答え、にこにこと笑みを浮かべるばかりでした。
そればかりか深夜、戸外で獣たちが盛んに吠え荒ぶなか、「おともだちが来た!」などと頓狂なことを言いだし、窓を開けようとしたことさえあります。
あの声が聞こえているのなら、よもやそんな恐ろしい真似などできるはずもありません。
だから娘は、やっぱり嘘つきなのです。自分の頭の中で勝手気ままに作りあげた絵空事を、時も場所も人も選ばず、好き放題に垂れ流すだけのけだものなのです。
わたしの抱える苦しみも知らず、妄言ばかりを吐き連ねる娘が、わたしは大嫌いでした。
そんな娘がこぼす言葉など、真に受ける必要などない。馬鹿馬鹿しい。 斯様に割りきり、わざわざと湧きあがる胸騒ぎをわたしはどうにか抑えつけました。
それから三日後のことです。お盆の送り火の日のことでした。
家族揃って今で夕飯を食べ終え、お風呂も済ませてそろそろ布団に入る時間です。
寝室に突然、血相を変えた百合子が駆けこんできました。
武徳が豚舎で首を吊って、死んでいると言うのです。
この晩、武徳は夕飯を済ませたあと、確かに姿が見えませんでした。
百合子の言葉に胸を張り裂かれそうになりながら、わたしは急いで豚舎へ駆けつけました。「嘘だ」と思いたかったわたしの願いは、豚舎の梁にぶらさがる、冷たくなった武徳の姿を目にした瞬間、からくも潰えてしまいました。
宙ぶらりんになった武徳の脚に縋りつき、百合子が獣のような声で泣き崩れます。
わたしはただ、武徳の亡骸を前に、悄として、立ち尽くすことしかできませ んでした。
「お父さん……お父さん……」
背後ですすり泣く娘の声を聞いた瞬間、頭の芯がかっ と熱くなりました。
そのまま勢い任せに振り返ると、気づいた時には娘の頬を思いきり張る自分がいました。
「この化け物!」
張られた頬の痛みを驚きにわっと泣き叫ぶ娘に対し、わたしは「お前が殺したんだ!」と怒声を張りあげておりました。娘はその場にひれ伏し、いつまで も泣き叫んでおりました。
平成四年八月のお盆。
一家の大黒柱を失った椚木の家はこの後、崩壊に向けて急速に舵を切ることになりました。
蠱物せる罪 【平成十七年七月三十日】
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「やめとけよ、やめとけよって何遍も言ってたのに、とうとうやりやがってなあ……」
苦虫を噛み潰したような顔で華原さんが珍しく、私に愚痴をこぼし始めた。
この日も夕暮れ近くから、私は華原さんの家を訪ねていた。暇を持て余していたのである。恋さんのお酌で華原さんは酒を、私は麦茶を飲みながら居間で 雑談に興じていた。
華原さんがしかめっ面をしている理由は、先日話題にでた、早紀江という女 の件だった。
何があったのか尋ねると、華原さんはいかにも面白くなさそうにぼつぼつと話し始めた。
先日の相談以降、早紀江はおよそ週に一度の割合で華原邸を訪れていた。
とはいえ、父親を呪い殺して欲しいという物騒な依頼について、華原さんは すでに断りを申しあげている。当初の依頼を放棄した華原さんはその後、早紀 江をいわば〝知人"として位置づけ、商売抜きで彼女の吐き連ねる愚痴や不平 不満の聞き役になっていた。
初めの頃は呪いの不実行に渋い顔をしていた早紀江も、何度か華原さんの家に通ううちに、わずかながらも気持ちがほぐれていったのだという。
当初は来訪するたび、 蒼ざめた面持ちで父親に対する怨み言ばかりつぶやい ていたのだが、しだいに雑談を交わすようになり、そのうち将来に対する夢ま で語るようになった。
早紀江の夢は美容師になることだった。それは幼い頃から父親の趣味嗜好で 髪型も服装も自由にならなかった抑圧からの解放でもあり、また反逆でもある という。
「でも、お母さんの髪を綺麗に梳いてあげたり、結んだりするのは好きだし得 意なんですよ。お母さんに褒められると嬉しい。人に喜んでもらえると、それ だけですごく嬉しいです」
相変わらず化粧っ気のないがさがさの顔に微笑を浮かべ、早紀江は少しはに かんだ。
「じゃあ、まずはあんたもお洒落しないとな。 美容師になりたいんだったら、 まずは自分がお洒落じゃないといけねえよ。 なろうと思えばきっとなれるか ら、がんばってみなよ」
華原さんの提言に早紀江ははっとなると、慌ててうつむき、頬を薄く赤らめたという。
「まあ、映画の『キャリー』じゃねえんだけどな。 その辺までは、まあまあ良かったんだわ。お姉ちゃんのほうも、自分からいろんな話をするようになって きてたし、次に来た時なんか綺麗に化粧もしてきてよ。 「どうですか?』 なん て訊いてもきたし、いい兆しだったんだよ。ただ······皮肉だわ。オチもしょぼ い 『キャリー』みたいになっちまった」
早紀江はその後、きちんと顔に化粧を施し、身なりにも精一杯、神経を配る ようになった。 来訪するごとに笑顔もいや増し、目に見えて生き生きとしてき たのだという。
ところがつい四日ほど前、早紀江は再びすっぴんのまま、華原邸を訪れた。
それも右目にひどい青痣を作って。
「親父に殴られたんだとよ。 『男に色目でも使うつもりか、この野郎!』って。それでまあ、俺も迂闊だったんだけど、とりあえず慰めたんだわ。親父に殴られたのは癪かもしんないが、けど、あんたももう子供じゃないんだ。 自分 がやりたいことは誰になんと言われようともさ、胸を張って堂々とやりゃあい いんだって。そしたらあいつ、ぽつりと言いやがったんだよ」
「止められてたこと、しちゃいました」
華原さんの言葉をうっちゃるように、早紀江は小声で吐き捨てるようにつぶやいた。
「呪っちゃいました。あのバカ親父」
真一文字にきつく結んだ口元をわなわなと震わせ、目からは大粒の涙をぼろ ぼろとこぼし、早紀江は押し殺すような声でつぶやいたのだという。
怒り狂った父親に身も心も散々に打ち据えられたその夜、早紀江は父親の道場に忍びこみ、書棚から呪いに関する書物をくすねた。
自室へ戻ると、書物に記された呪詛を手当たり次第に実践したのだという。
「とにかく呪って呪って呪って呪って呪って呪って呪って呪って呪いまくってやったんです。呪えば呪うほど手応えがあったから、嬉しくなって何百回も呪ってやりました」
早紀江のどす黒い情熱は、わずか二日で結実した。
ただし、災禍が訪れたのは父親ではなく、 早紀江の母親のほうだった。
「朝、お母さんが全然起きてこないから、寝室にいってみたんです。そしたら もう、なんか冷たくなっちゃってました。心不全だったって。 それで、親父の ほうはぴんぴんしてんの」
わたし、仕損じちゃいました・・・・・・。
がさがさに乾いた頰を大粒の涙で濡らしながら、早紀江は大声をあげて泣き だしたという。
「呪いってのは、衝動でやるもんじゃねえ。ましてや素人が気軽に試していいもんでもねえ。 拳銃とおんなじだ。射撃の心得のねえやつがぶっ放したら、弾はどこに飛んでいくと思う? どこに飛んでいくかなんて分かったもんじゃね え。目の前にいる敵に当たるかもしんねえし、隣にいる大事な人の脳天を撃ち 抜くかもしんねえ。そう考えるとおっかねぇもんだろ?」
だからやめろって言ったんだ。
険しい顔で言い終えると、華原さんは手にしていたコップの酒をぐいと一気 に飲み干した。
「それでまた、この話にはもう一個オチがつくんだわ」
祭壇を設えた華原さんの仕事部屋で散々泣き腫らしたのち、早紀江はこんな告白をした。
「あれ、もうできなくなっちゃったんです」
囁くように漏らすと、早紀江は卓上に置かれた湯呑み茶碗を両手でそっと包みこんだ。 華原さんが身を乗りだして様子を見守るなか、茶碗の中に注がれたお茶は待 てど暮らせど、ついに小さな気泡のひとつすら立てることがなかったという。
「わたし、罰が当たっちゃったみたいです......」
半ば放心したような顔つきで茶碗を見おろしながら、早紀江は小さくつぶや いたという。
「まあ、あのぶくぶく芸が本物だったかどうかなんて分かんねえことだし、真 贋なんざ正直、どうでもいいんだわ。 この間、お前にも話したろう? 問題は そんなとこにあるんじゃねえ。 本当の問題ってのはな、結局俺は、あの娘を救 けてやれなかったってことだ」
愚痴をこぼしたのと同じく、今夜は珍しく少し酔ってもいるのだろうか。
一頻り語り終えると華原さんは何度も大きなため息を吐きつつ、古びた天井板を悲しげな眼差しでしばらくぼんやりと見あげ続けた。
生膚断・死膚断 【平成十七年八月十日】
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菊枝さんという六十代半ばの女性から、複雑怪奇な相談をいただいた。
「あの世に行ってからもう一度死んでしまった亭主を、生き返らせてほしい」
皆目意味が分からず、「どういうことでしょうか」と尋ね返した私に、菊枝さんは自身の凄惨極まりない半生を語り始めた。
昭和三十年代の初め。菊枝さんは、鉄男という名の青年と見合いの末に契り を交わした。
結婚後、鉄男は実家からほど近い山の麓に土地屋敷を買い求め、同地で養豚 業を開始する。鉄男の実家も、父親の代から養豚業を営む家系だった。幼い頃 から家業の手伝いをしてきた鉄男にとって、養豚業は勝手知ったる天職のよう なものだったという。
菊枝さんも鉄男に寄り添って、日々甲斐甲斐しく家業に従事した。
朝から晩まで汗だくになりながら泥と堆肥にまみれ、ひたすら黙々と豚の世 話をする毎日。ただそれだけの生活だったが、代わりに浮き沈みもなく、 夫婦 の日常は穏やかなものだった。
そんなふたりの暮らしに陰りが見え始めたのは、結婚から十年余りが過ぎた頃だった。
この頃から鉄男は、実家の養豚業も掛け持ちで手伝うようになっていた。 手伝いの発端は、実家を継いだ長男が難病を患い、長期入院することになったことによる。
当時、鉄男の実家は先代の父母が相次いで病に倒れて亡くなり、まだまもないころであった。
それまでは父親と長男のふたりで営んでいた養豚業が、父親の急逝に伴い、 長男の双肩に重くのしかかるようになってしまっていた。
そんな折に長男の入院である。 実家の豚たちを世話する者は結果、不在となる。
そこへ白羽の矢が立ったのが次男の鉄男だった。病に臥せる長男に頭をさげ られた鉄男は一念発起。かくして自家と実家の養豚業の両方をやりくりする運 びとなったのである。
菊枝さんも鉄男につきしたがい、実家の手伝いに毎日足を運んだ。
同じく実家からは、菊枝さんの義姉にあたる長男の妻も作業に当たった。
義姉は菊枝さんと同年代だったが、色が白く身体の線も華奢な女であり、こ れまで実家の家業に携わった経験は一度もない人だった。
「身体に決して楽な仕事ではないし、不慣れなことをするとかえって身体を壊しますよ?」
然様に気遣いもしたのだが、それでも義姉は「うちの都合でご迷惑をお掛けするのだから、黙って見ているわけには参りません」と譲らなかった。
それから数ヶ月が経ったのち、長らく闘病生活を続けていた長男が亡くなった。
実家には歳幼い家督息子もいたのだが、人手として使えるものではなかった。
自然の流れとして、長男亡き後もこのまま夫婦で実家の養豚業に携わることになるだろう。少なくとも菊枝さん自身はそのように思って覚悟していたし、 当初はそのような流れだった。
ところが長男の四十九日が過ぎる辺りを境にして、菊枝さんは実家の作業から外された。
鉄男の提案だったのだという。 実家の養豚業は、義姉の仕事を手助けする形 で鉄男自身が、自家における養豚業は、菊枝さんが主にひとりで賄うという分 担作業になった。
その頃から、鉄男の菊さんに対する態度がなんとなくよそよそしいものになった。
作業を終えて自宅に戻ってきてもどこかそわそわとしていて落ち着きがなく、 菊枝さんの言葉にもいい加減な返事が目立つようになっていった。
それに加えて日を追うごとに実家へ入り浸る時間も異様に長くなり、母豚の分娩を理由に、明け方近くまで家を空ける機会も多くなっていった。
この時点で菊枝さんは女の勘が働き、実家で何が起こっているのか、薄々察し始めていた。だが、現場を押さえないことには抗弁もできないと考えてもいた。
ある晩、いつものごとく鉄男が母豚の分娩と称して、夜更け過ぎに実家へ出 かけていった。 菊枝さんは鉄男に気づかれぬよう、彼の背中を静かに追った。
ほどなく実家の豚舎へたどり着いた鉄男の前には、生白い細面に艶っぽい笑 みを浮かべた義姉の姿があった。 草葉の陰から一瞥するなり〝女の顔〟だと、 菊枝さんは直感する。
固唾を呑みつつ、ふたりの様子をうかがっていると、鉄男と義姉は豚舎の脇 に建てられた小さな木小屋の中に入っていった。
分娩の晩、休憩用に用いると〝されていた〟簡素な造りの小屋である。
つかのま様子を見計らい、木小屋の古びた窓から静かに中の様子を覗きこん でみたところ、果たして菊さんが想像していたとおりの光景が目の前にあった。
一組の布団が敷かれた狭い小屋のまんなかでは、裸になった鉄男と義姉がひ とつになって折り重なり、蛇のように四肢を絡め合っていたのである。
悔しさと悲しさに頭の芯がかっと熱くなり、涙が止めどなく溢れて視界がどろりと歪んだ。けれどもその場に踏みこむ勇気はどうしても持てず、その夜は 涙を流しながら自宅へ戻った。
代わりに翌朝、菊枝さんは朝食の席で意を決し、昨晩のことを鉄男に問い質した。
だが、鉄男から返ってきたのは謝罪でも弁明でもなく、 あまりにも強烈な鉄 拳制裁だった。
頬を思いっきり殴りつけられた反動で仰向けに倒れこんだ菊枝さんの顔に、頭に、胸元に、嵐のような勢いで硬くて重い拳が情け容赦なく浴びせられた。
拳と一緒に脚でも蹂躙された。こちらは腹に、背中に、尻に、腿に、鉄骨じみた硬い足蹴りが怒濤のごとく炸裂した。
「二度とくだらねえことを抜かすんじゃねえ」
両目を赤く血走らせた悪鬼のような形相で吐き捨てると、鉄男は家を出ていった。
その日を境に菊枝さんに対する鉄男の態度は一変。 もはや言いわけがましく 母豚の分娩を口実にすることもなく、肩で風を切るようにして夜な夜な実家へ 通うようになった。
鉄男から暴力を振るわれたのは、この時が初めてのことだった。
激昂した男から本気で暴力を振るわれたのも、生まれて初めての経験だった。
暴行を受けるさなか、身体じゅうを駆け巡る鋭く激しい痛みは元より、痛みと共に生じる、脳幹が恐怖でぎゅっと窄まり、魂を揉みくちゃにされるような、あの感覚———。
三十路を過ぎて初めて受けた兇悪な洗礼に、菊枝さんの心は白旗をあげた。
鉄男に再び暴力を振るわれると考えただけで、全身に電気を流されたように震えてしまう。義姉との不貞について、 二度と口を出す気になどなれなくなっ てしまった。
不貞を妻に知られた鉄男は、その後も実家へ足繁く通い、義姉との情交に猛り耽った。
そんな夫のために黙って食事を作り、風呂を沸かし、衣服を洗い整え、淫靡な義姉の待つ実家へ日夜送りだす。斯様に屈辱的で不毛な営みを菊枝さんは続 けた。
一度拳を振るって味をしめたものか、鉄男は以後もたびたび暴力を振るうようになった。「味噌汁がぬるい!」と怒鳴って顔にお椀を投げつけてきたり、「漬物がまずい!」と喚いて茶卓をひっくり返したりするのは、まだまだマシ なほうだった。
菊枝さんの顔に何か癇に障るものでもあるのか、時には目を合わせただけで飛び掛かられ、その都度、半ば失神するまで暴行を受けることもあった。
そんな時に鉄男が浮かべる形相は、まるで獣の霊にでもとり憑かれたかのように猛々しく、両目が丸く膨らんでぎらぎらと輝き、とても正気とは思えない。
本当に何かがとり憑いているのではないかと思うことすらあった。
「石女が偉そうな顔して、ふんぞり返ってんじゃねえ!」
暴力が始まったのち、そんな心ない罵りも鉄男の口癖になった。
本当は子供が欲しかった。 できれば今でも欲しいと思う。
結婚から十年以上連れ添っても、子供を授かる気配すら生じ得なかった菊枝 さんにとって、鉄男が吐きだすこの言葉は身に浴びせられる暴力以上に心を突 き刺し、涙を流させた。
斯様に苛烈で不遇な夫婦生活を強いられるなか、それでも菊枝さんは鉄男との離別だけは、頑として思い留まってきた。
幸か不幸か、子という重荷のない身である。逃げだすことは容易いことだった。
だが、悔しかったのである。
義姉に「男としての」 鉄男を奪われようと「夫としての」 鉄男だけは奪われ たくなかった。それはただの意地だったのかもしれないし、あるいは鉄男と義 姉に対して自分がおこなえる唯一の腹いせだったからこそかもしれない。 悔し いけれど、歯を食いしばって耐え抜いた。
結局その後、菊枝さんは数十年にもわたって、鉄男と懸命に添い続けた。
そんな鉄男が、今年の春にとうとう逝った。
大層おぞましいことに、齢六十を過ぎた鉄男と義姉は、死の瞬間まで逢引きを続けていた。
死因はどちらも心不全。 実家の豚舎の脇に立つ小さな木小屋の中でふたりは 素っ裸のまま、身体をひとつに重ね合わせて死んでいたのだという。
ふたりの訃報を聞かされた瞬間、菊枝さんは「ざまあみろ」とほくそ笑んだ。
一石二鳥とも思った。あのふしだらな女も死んでくれて、胸がすく思いだった。
鉄男の死後、菊枝さんは仏壇を買い求めることもなく、仏間の片隅に置いた 貧相な茶卓に白木の位牌ばかりをぽつんと立てた。手を合わせることはせず、供物を捧げることもなく、見向きもしなければ意識もせず、ひたすら位牌を丸 投げにした。
鉄男の四十九日が過ぎた、五月下旬のある晩のことだった。
深夜、寝室で寝入るさなか、仏間のほうからかたかたと、何やら乾いた音が 聞こえてきた。
仏間に向かうと、茶卓に置かれた白木の位牌が、かたかたと左右に小さく揺 れ動いている。 茶卓の縁では、もやもやとした白いものが像を結んでいるのも 確認できた。
それは紛うことなく、在りし日の鉄男の姿そのものだった。
鉄男は寂しそうな色を浮かべた面貌を卓上に伏せ、もやもやと右へ左へ身を 靡かせていた。半分煙になってしまったようである。
物憂げでしょぼくれた面持ちを一瞥し、およそ無理からぬことだろうと菊枝さんは思う。
拝まれなくて、寂しい思いをしているのである。
おそらく腹も減っているのだろう。喉も乾いているだろうとも思った。
「あんた、ちょっと待っててね」
もやもやと揺らめく鉄男に声をかけると、菊枝さんは急ぎ足で―――トイレに向かった。
トイレから戻ると、居間の茶箪笥から湯呑み茶碗を取りだし、トイレの中から持ってきた蛆殺しの薬を茶碗の中へなみなみと注ぐ。
ふくふくとした笑みを浮かべて仏間へ引き返すと、今度は白木の位牌の前に茶碗を供えた。
とたんに傍らで腰をおろしていた鉄男の顔が、 苦悶を孕んだ凄まじい表情に 切り替わる。
煙のように靄る鉄男は、だらりとベロを吐きだしながら畳の上にもんどり 打って倒れこみ、両手で喉の辺りをばりばりと掻き毟り始めた。菊枝さんは激 しくのたうち回る鉄男のそばへ静かに腰をおろし、慈しむような笑みを浮かべ ながらその様子を黙ってじっと見守り始める。
数分ほどで鉄男の姿は完全に潰え、あとはもうそれっきりだったという。
そんな夫の魂を、再び現世に蘇らせてほしいのだと菊枝さんは希う。
「なぜですか?」と尋ねると、彼女の頬からぽたぽたと、涙が零になってこぼ れ始めた。
「あれは確かにろくでもない男だったけど、それでも初めからああだったん じゃないんです。 わたしねえ、あれが完全にいなくなってから思いだすように なってしまったんです......」
鉄男と菊枝さんが結婚して、まだまもない頃のことだという。
ある日、菊枝さんが大好きな演歌歌手が、地元の町に来ることを知った。
公民館でコンサートを開くのだという。それは来たる日曜日、昼過ぎからの公演だった。
知ってしまうと居ても立ってもいられず、さっそく鉄男に「連れていってよ」とせがんだ。
だが、渋面を浮かべた鉄男の口から出てきたのは「俺はそんなもんにゃ興味 ねえ」という、ぶっきらぼうな返事だった。
日頃の豚の面倒もあることだし、まさか「ひとりで行ってきたい」とも言い だせなかった。消沈しながらも気持ちを切り替え、菊枝さんはコンサートに行くのを諦める。
それから数日経った、公演の当日。
午前の仕事を済ませ、台所で昼食の支度をしながら「そろそろ始まってしまうな......」と思っているところへ、うしろから「おい」と声をかけられた。
振り返ると、一張羅の背広に着替えた鉄男が台所の戸口に立っていた。
「お前も早く着替えろ。間に合わなくなっちまうぞ」
仏頂面を少しだけはにかませながら菊枝さんに背を向けると、鉄男はいそい そと玄関口を抜けだし、庭先に停められた軽トラックのエンジンを掛けた。
その背に向かって「はい!」と応えると、菊枝さんも大慌てで着替えに取り掛かった。
「つまらない思い出だと思います。でも、今になると何だか無性に思いだして しまうんです。不器用だったけれど、昔はあんなに優しいところもある人だっ たんです......。 だからわたし、亭主にとんでもないことをしてしまいました。 どうかお願いします、あの人をもういっぺん、生き返らせてあげてください......」
言い終えるなり菊枝さんは畳の上に頭を擦りつけ、おいおいと声をあげて泣きだした。
私は菊さんの咽び泣く声を背にして、亡き鉄男の名をあげ、供養の経を唱え始めた。
月に潰える 【平成十三年夏~平成十七年春】
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その後のわたしたちの暮らしは、筆舌に尽くし難いほど鬱いものとなりました。
武徳の死後、以前からわたしに対して刺々しかった百合子の態度は、ますますあけすけで冷たいものとなり、まもなく共に食卓を囲むことすらなくなりま した。
一方、家業の養豚は、武徳亡きあとも継続しておりました。叔父が毎日手伝 いに来るので、百合子とふたりでどうにか続けることができていたのです。
ただその弊害として、叔父が家に入り浸る時間も、日に日に増していくよう になりました。
ほぼ連日のごとく、仕事が終わると母家の居間へあがりこみ、百合子のお酌 で夜遅くまで酒を呑み続けるのです。酔いの勢いに任せ、我が物顔で振る舞う 叔父をわたしは厭いました。
百合子や叔父との関係と同じく、子供たちとの関係にもさらなる亀裂が生じ ていきました。
娘は相も変わらず、事あるごとに嘘を吐き連ね、その都度わたしに怒鳴られ ていましたし、息子は息子でそんなわたしの姿に怯え、しだいに寄りつかなく なっていったのです。
そんな子供たちの態度にわたし自身も急速に興味を失っていきます。 そのう ち親としての愛情を注ぐことさえなくなり、以前にも増して子供たちを遠ざけ るようになりました。
そういえば、こんなこともありました。
娘が小学四年生、息子が二年生の頃の話です。 きっと何か悪さでもしでかしたのでしょう。ある時、ふたりが百合子から凄まじい折檻を受けたことがありました。
真冬のことで戸外に分厚く雪が降り積もるなか、百合子は娘と息子を玄関前 に放りだすと、両手に握り締めた太い角材でふたりの身体を散々に打ちのめし たのです。
ふたりとも顔じゅうが青黒く腫れあがり、歯も何本かへし折れる大怪我を負 いました。
けれども百合子がふたりを折檻するさなか、わたしはそれを制することも庇 うこともせず、縁側に面した家内の窓辺に座りながら、その様子を黙って眺め 続けていたのです。
果たして何をしでかしたのか分からないけれど、いい気味だと思いました。
それほどまでに子供たちに対する愛情を、わたしは失っていたのです。
他方、不定期に轟く獣たちのあの声は、なおも聞こえ続けておりました。
まるで何かを探し求めるかのように屋敷の周囲を徘徊し続ける、あの動き方 も一緒です。
もう長い年月、聞かされ続けている声なので、今やいちいち驚くことはあり ませんでした。ただそれでも声を耳にするたび、ざわざわと落ち着かない気分 にはさせられます。
義母にも叔父にも、娘にも息子にも、決して聞こえることのない声。 黒い獣 たちの魔声。
そんな声が聞こえるわたしはきっと狂っているのだと、もはや確信すら抱い ておりました。
斯様に殺伐とした営みを続けてきた、平成十三年のことです。
ある日のこと、十九歳になった娘が妊娠していることが発覚しました。
相手が誰であるのか、娘はとうとう口を割りませんでした。けれども相手が誰であろうと、どうせろくでもない男だと思いました。
高校に入学してしばらくした頃から、娘の素行は目に見えて悪くなっていきました。
夜な夜な頭の悪そうな仲間たちと車で出掛け、何日も家に戻らないこともしばしばでした。
高校を卒業後、その放埒さはますます顕著なものになっておりました。ちゃ らちゃらした服装でわけの分からない仲間たちと無軌道に遊び回る様は、堕落 の極みといったところです。
そんな時期に発覚した妊娠です。 だから相手も、どうせ同じ穴のだろうと 踏んだのです。
当然ながら、わたしは出産に強く反対しました。けれども娘は頑としてそれ を拒みました。 わたしの言葉などまるで受け入れる素振りもなく、ただただ 「産む」の一点張りなのです。
「どうしても産むなら、家から出ていけ!」とも言いました。
しかし、それでも娘は「産む!」と泣き叫び、堕胎を受け入れようとはしま せんでした。
結局、わたしと娘の意向は、互いの主張を踏まえたうえで決まりがつくこと となりました。 娘が子供を産む代わりにわたしは娘に住み家を一軒、与えるこ とにしたのです。
当時、椚木の家には地元界隈に所有する土地屋敷がまだ何軒もありました。
先代の義父が夭折したのち、新たに増やすことはなくとも、手放すこともほと んどなかったのです。
不幸中の幸いとでも言いましょうか。無理を承知のうえで百合子に事情を相談したところ、思いもかけずふたつ返事でこれを了解されたことも功を奏しました。
百合子の意外な計らいにより、娘は出産を機にして、椚木の家から遠く離れ た街場に立つ一軒家へと移り住むことになったのです。 娘の顔などもはや見た くもありませんでしたので、内心いい厄介払いだと思いました。
娘はその後まもなく、どこぞの男を咥えこんで結婚しましたが、もともと嘘 つきなうえに何かにつけてだらしのない子です。 結婚生活は数年足らずで終わ りを迎え、今は再び子供とふたりで、椚木の家が所有する同じ一軒家に暮らし ております。
その一方で息子のほうは、高校を卒業してからまもなく心を病んでしまい、 自宅と病院を行ったり来たりする生活が一年半ほど続きました。
健全な母子の情など、もはや通い合っていなかったわたしたちですが、それ でもわたしは、息子に手を掛けられるだけは掛けたつもりです。
けれどもやはり、母親としての情がわたしには足りなかったのでしょう。 息子は二十歳を迎える誕生日を目前に、武徳と同じく自室で縊死してしまったのです。
思えば小さな頃から気弱で、娘とはまた違った意味で落ち着きのない子だっ たと思います。たった二十年足らずの短い生涯で、わたしはこの子に一体何を してあげられたのだろうか? そんなことを今さらになってほとほと悔やみ、 倦みつかれるまで泣き腫らしました。
ふたりの子供がそれぞれ世間と彼岸へ去ったのち、椚木家にはわたしと百合子のふたりが、まるで木守のようにとり残されました。
互いにかける言葉もなく、それ以上に情すらも通い合うことのない仮初めの母娘。
同じ屋敷に住まいながら、肩がぶつかるのをかわし合うようにして暮らすわたしたちとは一体なんなのだろうと、虚しい気持ちに駆られることもしばしば でした。
そんな殺伐とした生活の中、私の死んだ心をかすかに揺さぶるのは、夜な夜な屋敷の庭に木霊する、あの獣たちの咆哮だけでした。なんとも皮肉な話だと思います。
そんな、終わりの見えない無為な暮らしが始まって五年目、今年の四月のこ とでした。
ある朝目覚めると、屋敷のどこにも百合子の姿が見当たりません。
これが夜更けのことであれば、豚舎に詰めているものだと思って気にも留めないのですが、豚舎で百合子が独りで夜明かしするなど、今まで一度もないことでした。
別に百合子の身を案じたわけではありません。
けれどもなんだか心に引っ掛かるものはありました。勘とでも言えばよいのでしょうか。
急ぎ足で豚舎へ向かい、隣の木小屋を覗いてみると、果たして予期したとおりでした。
電気の消えた薄暗い木小屋の中で、百合子と叔父が折り重なって冷たくなっ ておりました。死因はふたりとも、心不全とのことでした。
変死ということで一時、警察も現場に駆けつけました。
しかし、ほどなく事件性はないと断定され、あとはそれきりです。わたし自 身もふたりの奇妙な死そのものに関しましては、なんらの感慨も湧きたつこと がありませんでした。
そればかりか、長らくわたしを苦しめ続けてきた百合子と叔父の逝去に、 わたしの心には一陣の風が吹き抜けたような爽快感が、むしろ湧きたったので す。
鬼のような女だと思われても仕方のないこととは思います。 けれども否定はいたしません。ふたりの死をはっきりこの目で確認した瞬間、わたしの心はわずかに躍ってしまったのです。
ほとんど無我の境地で百合子の葬儀を手早く済ませてしまうと、椚木の屋敷 に残ったのはとうとうわたし独りとなりました。
寂しいなどという感情は微塵も浮かびはしませんでした。
ですが、気持ちが安息や幸福で満たされることもありませんでした。
今や風前の灯となった椚木の屋敷に、たった独りで取り残されたわたしが感じたのはそう。強いて言うならやはり、虚しさだったのだと思います。
ただ、独りきりになってから胸を撫でおろしたことが、ひとつだけありました。
獣たちの声です。
嫁いで以来、長きにわたってわたしの心を飲み続けてきた、あの忌々しい獣 たちの咆哮が、全く聞こえなくなったのです。
それは実に二十数年ぶりのことでした。
声は毎晩聞こえてくるものではないため、初めはまるで気づかずにおりました。
けれども広い屋敷に独りきりになって一週間が経ち、二週間が経ち、やがて ひと月余りが過ぎる頃、わたしはようやくこの素晴らしい事実に気がついたの です。
そこからさらに数週間が過ぎても、声はやはり聞こえてくることはありませんでした。
ためしに深夜、窓から庭を覗いてみたこともあります。 わざわざ玄関口から庭へ飛びだし、周囲を隈なく歩き回って気配をじっと探ってみたこともあります。
それでもやはり獣たちの声ばかりか、あの恐ろしい姿さえどこにも見当たり ませんでした。なんだか肌に感じる夜気さえ清らかに感じられ、かすかに驚か されもしたものです。
ああ、ようやく解放されたんだ―
確信すると、この時ばかりは心の底から微笑むことができました。
もうあの恐ろしい声に、わたしは目を覚まさせられずに済むんだ。
思い做すと、わたしは二十数年ぶりに心から熟睡することができるようにも なったのです。 あたかも、これまで眠り損ねた分を取り戻すかのように、 それからしばらくの間は昼も夜も関係なく、ひたすら滾々と眠り続ける日が続きま した。
百合子と叔父の死後、世話をする者がいなくなった豚たちは、まもなく全て売却しました。敷地から家畜すらもいなくなり、これでわたしは椚木の家に完 全に独りです。
家族の声も、豚の声も、そしてあの獣たちの咆哮さえもー。
何もかもがすっかり潰えて色を失い、さながら土中に埋められた棺のごとく静謐になった我が家の寝室で、わたしは毎晩安息の眠りを貪りました。
ですが、そんな荒廃した平穏も決して長くは続いてくれませんでした。
百合子の四十九日が終わり、しばらく経ったある晩のことです。
枕元を突如、ばんばん!と激しく叩きつける音にわたしは驚き、目を覚ましました。
はっとなって目を開くと、そこには百合子の姿がありました。
満面に冷たい笑みを浮かべた百合子の顔が、逆さになってわたしを見おろしていたのです。百合子の顔を見るなり、わたしはそのまま失神してしまったよ うです。
それから毎晩、百合子は私の枕元へ現れるようになりました。
初めの数日こそは、おそらく悪い夢でも見たのだろう、あるいは単なる気の迷いだろうと自分を騙しておりましたが、そんなものは結局なんの誤魔化しにもなりませんでした。
百合子はその後も毎晩、寝ているわたしの前に現れ続けているからです。
悪い夢でも気の迷いでもなく、あれは確実にわたしの枕元に夜ごと現れ、わたしを嘲笑い、苦しめ続けているのです。 死してなお、始末に負えない恐ろしい女なのです、あの女は。
ですからどうぞ、お願いします――
己が子犯せる罪 【平成十七年八月二十日】
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「あの女を、わたしから祓い落としていただきたいんです」
憔悴しきった面差しに切羽詰まった色を深々と滲ませ、椚木昭代は私たちにそう願った。
新盆の送り火も終わり、 そろそろ夏の終わりも肌身に感じ始めた、その日の 午後。
私は形式的な師匠筋に当たる水谷源流の仕事場において、椚木昭代の口から 紡ぎだされる長大な昔語りにほとんど無言のまま聴き入っていた。
昭代は別段、依頼に際して私を指名してきたわけではない。依頼先はあくま でも水谷さん。私は水谷さんのいわば助手として呼ばれ、彼とふたりで昭代の 相談を伺っていたのである。
仕事場に設えられた祭壇上には、長さ二十センチほどの小さな塔婆がずらり と三十本ほど、整然と並べられている。 水谷さんが先祖供養をおこなう際に用 いる塔婆である。
塔婆には銘々、椚木家の先祖と思しき戒名が、水谷さんの手で墨痕鮮やかに 書かれていた。昭代の依頼はお祓いということだったが、どうやら先祖供養も 同時におこなうらしい。
何事も安易に祓うばかりでは解決を見ないというのが、水谷さんの信条だった。
「話の腰を折るようで大変恐縮ですが、少しだけお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
昭代が話を終えたのち、先に口火を切ったのは水谷さんではなく、私のほうだった。
どうしても訊かずにはいられないことがあったのである。
「はい。どういったことでしょうか?」
「今までのお話に登場するあなたの娘さん、名前は千草というのではありませんか?」
尋ねた瞬間、昭代の顔がにわかに曇った。
「......はい、そうです。 あれのことをご存じなのですか?」
瞳の奥にどことなく警戒の色を浮かべながら、昭代はゆっくりと私に答えた。
やはりそうかと思う。昭代の話を聞いている途中から、半ば確信めいた予感があったのだ。
たとえば小学時代、昭代の娘が戸外から聞こえる子供たちの声にはしゃいだという話。
それから義母・百合子に姉弟揃って激しく折檻されたという話。
語りの視点は違えど、これらは先々月、千草の口から〝怪談”として聞かされた話だった。
「はい。守秘義務もありますし、本来はあまりくわしくお話しすることはできないのですが、今回は例外と判断し、お尋ねさせていただきます」
ただ、いくつか腑に落ちない点もあった。以下がその最大の原因である。
「私は娘さんから、昭代さんが亡くなったと聞かされております」
そうなのだ。千草が私に持ちこんだ依頼は、死んだ母親が化けて出てきて困っているから、それをどうにかしてほしいというものだった。
しかし実際はこうして、昭代は生きてこの現世に足をついている。
これでは話が噛み合わない。
「そうですか。でもさっきも話したとおり、あれは嘘つきなんです。 いつものことですよ」
鼻で小さくため息を漏らしながら、昭代は答えた。
なるほどとは思う。あり得ない話ではない。ただ、それでも矛盾は残る。
千草が昭代の存在を疎んじ、単に死んだものだと思いたい〟だけならばそれでもいい。
別に死んだと思うようにしている昭代が、わざわざ化けて出てくる必要など ないのだ。
「あまり気持ちのいい話でないことは承知のうえなのですが、お聞きくださ い。千草さんは亡くなった昭代さんが夜な夜な自宅に現れ、困っているとおっ しゃっているんです」
怪訝な顔をして、昭代が若干あごを引いた。
「それこそ嘘ですよ。 昔からそういう娘なんです、 あれは。 子供騙しの嘘八百 ばかりついて周りを困らせて楽しんできたんです。今の話なんか、ちょうどい い証拠じゃありませんか」
確かにそういう考え方もできなくはない。
これまで長々と聞かされてきた昭代の千草に対する主観的な印象を受け容れ るだけならば、昭代の評するとおり、単に千草を嘘つき"と断定するだけでよい。
ただ、昭代の話を全て聞き終えた今となっては、このような決めつけは公平 ではなくなる。
他人に視えないものが視える千草を嘘つきと評するならば、それは昭代も同 じことなのだ。
昭代自身も椚木の家で長年にわたり、他の家族には決して見えない獣たちの 姿を目撃し、またその声を聞き続けてもいる。
千草と昭代の置かれている立ち位置というのは、実のところ全く同じなのである。
いずれも客観的な証明ができないものを視える、聞こえるといっている以上、どちらかを指して嘘つきとは決めつけられないのだ。
仮にそうするならば、両方とも嘘つきとしなければ公平ではなくなる。ある いはどちらも正しいことを言っているのだと認めるしかないのである。
そのように指摘すると、昭代は露骨に顔色を悪くさせた。
「娘が言っていることは、間違いなく嘘です。 それは小さい頃からあれを見て きたわたしがいちばんよく知っております。けれどもわたしは違うんです。 本 当に苦しいんです。 昔からあのけだものたちの声に悩まされてきたんです。今回だって本当なんですよ。死んだはずの姑に毎晩苦しめられているんです。 お願いします、信じてください......」
悲壮な色を浮かべて必死に潔白を訴える昭代の姿が、なんだかひどく気の毒に思えた。
「昭代さんのおっしゃることを嘘だとは思っていませんよ。 それはご安心な さってください。でも、そうなると千草さんの話だって丸々嘘だと決めつける わけにはいかなくなるんですよ。現に私は六月に千草さんから同じような依頼 を受けています。 少し前に死んだはずの母親が夜な夜な寝床に現れ―――」
そこでふっと思考が止まった。
夜な夜な寝床に現れる母親と、同じく夜な夜な寝床に現れる義母。
状況が、あまりにも似過ぎている。この類似点は何を示唆するものなのか。
「······あんたはどうしてそんなに、娘さんのことを嫌うんだ?」
それまで石のように押し黙っていた水谷さんが、突然ぽつりと口を開いた。
眼鏡の奥から覗く双眸が、 矢のごとく鋭い。その目はまるで昭代の心中を見透かすように、彼女の沈んだ両目のはるか奥深くへと向けられているように感 じられた。
「私の感覚ではどうにも、娘さんに妙なものが視えるというだけで厭うている とは思えない。だからといって、娘の素行や気性を嫌って疎んじているとも思 えない」
本当の理由は、なんなんだ――?
眉間に小さく皺を寄せ、水谷さんが昭代の目をさらに凝視する。とたんに昭 代は下を向き、 そわそわと落ち着かない素振りを見せ始めた。
「――あんたの娘、 本当はあんたの娘じゃないんだね?」
水谷さんの発したそのひと言が、全てをつまびらかにした。
「千草は、わたしの娘じゃありません。姑と夫の間に生まれた子供なんです」
うつむいたまま消え入りそうな声でつぶやくと、昭代の頬に涙が伝った。
これでようやく、得心した。
千草が以前語った、折檻の話。 屋根裏に侵入した千草たちを棒で打ち据えたのは母親だと千草は言っていた。しかし、昭代の話では棒で打ち据えたのは昭代ではなく、百合子である。
一方、千草が小学時代、母方の実家に泊まりに行った時の話はどうだった。
「お母さんの実家に泊まりにいった」と、千草ははっきり言っていた。
他の話もそうだった。話中に昭代が登場する話には全て「お母さん」が登場し、百合子が登場する話には「母親」が登場している。
そういうことかと思い至ったとたん、千草の手繰る言葉の意味が理解できた。
母親。お母さん。
あれは千草なりの使い分けだったのだろう。
だとするならば、千草の前に現れる〝母親〟が誰であるのか。自ずと察しがついた。
昭代の寝床に夜な夜な現れる亡者と同じ――百合子である。
「一体、何があったんだ?」
水谷さんの問いに、昭代は半分気の抜けたような調子でのろのろと語り始めた。
「結婚して三年目のことでした。 姑がある日突然、 関東の病院に長期入院したんです。夫は癌が見つかったからだと言っていましたが、不思議と退院するま で一度もわたしは見舞いに連れていかれることはありませんでした」
およそ半年間の入院ののち、退院してきた百合子の腕には、赤ん坊が抱かれていたという。
「姑と夫に、何も言わずに育てろと言われました。 誰と誰の子なのかはすぐに 分かりました。 その時にわたし、何もかも分かってしまったんです......」
夜な夜な母豚の分娩と称して、豚舎脇の木小屋に通い詰める母と息子。
思うが早いか、私の頭巾にあるおぞましい光景が浮かぶ。昭代がこれ以上何 も語らずとも、それだけですでに何もかもが了解できた。
「あのけだものたちが鳴き叫ぶのは、決まって姑と夫が豚舎で夜を過ごす時でした。わたし、本当は薄々察してはいたんですけど、一度も面と向かって言い だせませんでした」
言い終えるなり、昭代は堰を切ったように泣きだした。
およそ二十数年にもわたって、おそらくは誰にも言えなかったであろう、忌まわしき真実。その片鱗を晒けだした後悔と解放感の両極に、昭代の泣き声は 満たされているようだった。
嗚咽混じりに昭代がさらに心中を吐露する。
「だからわたしは娘が憎いんです。あんな女とあんな夫が欲情に任せてこしら えた子供です。しかも娘の顔は、若い頃の姑にそっくりなんです! 娘の顔を 見るたびに汚らわしい光景が嫌でも目に浮かぶんです! そんな娘を愛せるわけがないじゃないですか!」
「娘さんを預けられた時点でどうして逃げようとしなかった? 帰る家がないわけでもない。さっさと離婚して、やり直すこともできたはずだ。どうしてそれをしなかった?」
なだめすかすように穏やかな口調で、水谷さんが再び昭代に問うた。
「......自分が弄ばれたようでくやしかったんです」
ぼろぼろと涙をこぼしながら、昭代は答えた。
「わたしは嫁として、椚木の家に入りました。 でも、それ以前にわたしはひと りの女として、武徳と一緒になったんです。それなのに自分はあの人と姑に とって、世間の目を欺くためにあてがわれた道具に過ぎなかった。 それを確信 した時、意地でもこの家から離れるものかとわたしは覚悟を決めたんです。 あ の人との間に意地でも子供を作ってやると決心もしました。そんな暗い執念が 実ったんでしょうね。どうにか息子をひとり、授かることができましたよ。 でも、あの子もとうとう死んでしまった······。 わたしが至らなかったばっかりに」
湧きあがる感情の波に身を任せるまま昭代はそこまで一気に言いきると、再び声をあげて泣きだした。
千草が依頼の詳細を断片化し、謎解きのような真似をした理由が分かった気がした。
話したくなかったのだろう。 とても他人に開示できるような話ではない。
自分の口から全てを話さずとも、私に気づいてほしかったのではないか。
思い至ると、千草がひどく哀れに感じてならなかった。
昭代の顔を見る。 歳相応の小皺がいくつも刻まれ、強い疲弊と荒廃の色を滲 ませてはいる。 それでもよく見てみると、目鼻だちのすっきりと整った端整な 顔立ちだということが分かる。若い頃にはきっと。否、こんなことになる前はきっと、綺麗な人だったのだろうと思う。
だが、その顔はやはりどう見ても、千草の顔とは似ても似つかないものだった。
同じく長年、昭代の心を怯えさせてきた獣たちの正体もなんとなく分かった 気がした。 おそらくは傷ついた昭代の心が作りだした、幻想なのだ。
夜ごと、豚舎から昭代の寝室へ幽かに届く百合子と武徳が織り成す甘い声が、昭代の中でいつしか得体の知れない獣たちの遠吠えに変換されてしまった のだろう。
百合子と武徳の顔が狼に見えてしまったのも、原因は同じことだろうと思う。
「そうか。がんばったんだな。 もう苦しむな」
昭代を腐すことも責めることもなく、 水谷さんはひと言、昭代に労いの言葉を向けるなり、祭壇前にすっと座を移した。
水谷さんの言葉を受けた昭代は、 つかのま魂が抜けたように放心したあと、子供のようにわんわんと声を張りあげて泣いた。
水谷さんの手による椚木百合子の亡魂を祓う儀式は、わずか二分ほどで滞り なく終わった。
淡々と呪文を詠唱し、祭壇前でお祓い用の木剣を振るうだけの、それはあま りにも簡素な儀式である。 第三者が見ればおよそ起伏に乏しく、味気のないも のに思われるかもしれない。
だがお祓いとは本来、このようなものなのである。
お祓いが終わると、続いて水谷さんは椚木家先祖代々の霊位供養に移った。 祭壇上に並ぶ塔婆に書き記された戒名をひとつずつ読みあげながら、こちらも淡々と読経をあげる。
二十分ほどで供養も終わった。私は結局、最後まで何をするでもなく、昭代 の隣に並んで水谷さんの仕事を無言でじっと見守っていただけである。
「これでもう大丈夫だろう。各々収まるべきところに、みんなきちんと収まっ てくれる」
祭壇の前から昭代のほうへ身体を向け直した水谷さんは、厳かな声で宣言した。
昭代は深々と頭をさげ、水谷さんへ丁重に礼を述べたあと、ほどなく仕事場をあとにした。その面差しには未だ暗い陰が残されてもいたが、半面、長年にわたって己が心を苛んできた何もかもを打ち明け、どことなくすっきりとした色も見受けられた。
昭代が帰ると私は水谷さんとふたり、線香の残り香が漂う仕事場にとり残された。
「今日の相談、別に私がいなくても水谷さんだけで大丈夫だったんじゃないん ですか?」
たまさか千草の件が浮上したため思わぬ展開になってしまったが、それは不 可抗力である。 偶発的に昭代の悲しい秘密を引きだした以外、私は特に仕事ら しい仕事は何もしていない。
加えて通常ならば、水谷さんが私を呼ぶのは地鎮祭など、仕事の準備自体に人手を要する大がかりな用件。もしくはごく稀に、水谷さんひとりの判断では真贋を決めあぐねるような複雑な用件において、一種の指標として私の個人的 感想を求めるような場合のみである。
そのいずれも私はこの日、おこなっていない。
「何か厭な予感でもあったんですか?」
「そうだ」
何気なく尋ねた質問に水谷さんが間髪容れずに答えたため、私は少々たじろいだ。
「実はな、本当だったら俺のほうが椚木さんの家に行く予定だったんだ」
懐から抜きだした煙草にぼっと火をつけ、深々と煙を吸いこむ。 入道雲のような紫煙を天井に向けて吐きだしたのち、水谷さんはぽつぽつとこれまでに至 る経緯を語り始めた。
「先週、椚木さんから 姑のお祓いの件で相談があった」
死んだ百合子が化けて出るのでお祓いをして欲しい、とだけ頼まれたのだという。
「普段なら大した用件じゃない。本物だったら型どおりに祓えば用が済む。気の迷いならば懇々と語って聞かせれば用が済む。そういう類の用件だった」
四日前の夜七時に予約をもらい、水谷さんは車で山中にそびえる椚木家へ向かった。
「山を半分まで登って、引き返してきた」
とても手に負えないと思ったのだという。
九十九折の男坂をしばらく登っていくと、ふいに車の前方に黒い影が差した。
「身の丈は俺とお前と同じくらいだ。 これぐらいじゃ俺も驚かない。でもな、幅が違ったよ。道幅は狭かったが、それでも車二台が余裕で行き違えるぐらい の尺はあった。それなのにな、影は道の端から端までいっぱいになって埋め尽 くしていやがるんだ」
影はヘッドライトの強烈な灯火を浴びてもなお、黒い闇のままだった。 悪寒を感じつつも前方を塞ぐ影の正体を見極めるべく、水谷さんはゆっくりとアクセルペダルを踏みこんだ。
「狼だったよ」
巨大な影へ向かって、距離が数メートルまで縮まった時だという。 漆黒の影 に色が差した。まるで影の内側からぱっと光が灯ったようだった。
首から尻尾まで四メートル以上はあろうかという巨大な狼が、目の前にいた。
満月のような金色の瞳と、銀色の体毛を燦然と輝かせる巨大な狼。
それが水谷さんの車のすぐ前方に、すっくと立ちはだかっていた。
狼は耳まで裂けた大きな口から鋭い牙をナイフのように剥きだし、射貫くような眼差しで水谷さんを睨み据えていたという。
「すぐさま車をバックさせて、あとはUターンだ。 そのまままっすぐ家まで 帰ってきた・・・...。 あんな化け物が門番をする家など、 俺の手に負えるもんじゃ ない」 見ると、指先に煙草を挟む水谷さんの手が小刻みに震えていた。
「でもな、そのあとすぐに椚木のあの奥さんから電話がかかってきた。 『遅いようですけど、いつ頃来られるのでしょうか?』だとよ。俺は正直なところ、 もう断りたい一心だったんだ。 けど、このまま逃げたら俺自身の沽券にも関わる。 それで一旦仕切り直しにしたんだ」
ただし、場所は木の屋敷ではなく俺の仕事場で。
「お前と椚木さんのやりとりを聞いて確信したよ。 やっぱり俺の思ったとおりだ」
吸い終えた煙草を灰皿へ揉みくちゃにして潰すと、水谷さんは身を乗りだして続けた。
「あの家にも娘にも、もう金輪際関わるな。 我々にどうこうできるようなもんじゃない」
血走った目で警告する水谷さんの唇は、わずかに震えていた。 初めてみる表 情だった。
「この話はあまりにも根が深過ぎる。 誓って言うぞ。 俺は今日、椚木さんの昔話を聞くまで、狼が障っているなど一切知らなかった。お前は多分、こう思っ たんだろう? 狼は椚木の奥さんが自分の正気を守るために作った幻想だと。 だとしたらとんだ思い違いだ」
あれは本当にいる――。 水谷さんはきっぱりと断言した。
「今日のお祓いと供養が俺にできる精一杯だ。これ以上は関わりたくない。 お 前も絶対に関わるな。命をとられるぞ」
吐き捨てるようにそう言い終えたのち、水谷さんは新しい煙草に火をつけた。
狼に関する合理的な解釈は図星だったので、反論の余地はなかった。
なんだか身の置きどころもなく、無言のまま仕事場の方々に視線を泳がせる うち、無数の塔婆が並ぶ祭壇についと目が留まる。 塔婆の傍らに、白い紙が添えられていた。
事前に昭代からFAXで送信してもらった椚木家の家系図だと察する。相談 事や供養事のよすがとして、水谷さんはたびたび依頼主に家系図や過去帳の提 示を求めるのである。 何気なく立ちあがり、家系図を手にした瞬間、頭を金槌で殴られたような衝 撃を感じた。
「水谷さん、これお借りしてもよろしいですか?」
頭よりも先に口が勝手に動いたという感じだった。
「なんに使うつもりだ? 関わるなと言ったはずだぞ」
厳しい声で水谷さんが即答する。
「関わりません。ただ、確かめたいことがあるんです」
「どうして今日、お前を呼んだか分かるか?」
「怖かったんだよ。あの家の人間とふたりきりで会うのが。情けないと思うんならそう思え。まあいい。 見たいんだったら、その家系図はくれてやる。 手元に置くことすらしたくない。俺はもう絶対に何があっても、あの家には関わらん」
悪いことは言わん――お前も絶対に関わるんじゃないぞ。
警告を繰り返す水谷さんを尻目にそれでも私は家系図を掴み、仕事場を辞した。
帰宅後、半ば転がりこむようにして自宅の仕事場へ駆け戻る。
水谷さんから強引に譲り受けた椚木家の家系図を座卓に広げ、ただちに瞠目する。
やがていくらのまも置かず、顔から血の気がみるみる引いていくのが感じられた。
やはりそうだった。 パンドラの箱の蓋を開けたような境地に呆然となる。
先刻、椚木昭代と高鳥千草の関係が分かった瞬間の衝撃。その何百倍もの衝 撃が、全身を稲妻のごとく一気に駆け巡る。
昭代と千草ばかりではなかった。あらゆる線から、繋がっていたのである。
この数ヶ月の間に訪れた相談客の問診表もどきを引っ張りだし、ずらりと卓上に展開する。問診表もどきと椚木家の家系図を照らし合わせるなか、胸の高 鳴りが加速した。 六月十八日。狼男の相談で訪れた皆川親子。
椚木家の先々代。 昭代の義理の祖父の妹にあたる人物の嫁ぎ先が、皆川家である。
六月二十日。自称霊能者で、他人の鼓膜を破る奇行を持つ芹沢真也。
真也の母・千恵子は、椚木百合子の次女。 すなわち武徳の妹にして昭代の義妹である。
七月二日。園芸クラブの因縁に憤慨し、亡き母に復讐を祈願した椚木園子。 園子の母・紀子は、椚木百合子の長女。千恵子ともども昭代の昔話に登場する義妹である。
七月二十四日。著名人が守護霊についたと豪語していた黒岩朋子。そしてその母・麻子。
麻子は、武徳の父親の妹である。
そして八月十日。椚木菊枝が二度目の死を与えてしまったという暴君の夫・ 鉄男。
鉄男は椚木百合子の義弟。 すなわち武徳の父親の実弟である。
やはり全部、 一致していた。
物理的にありえない話では決してない。 しかし、常識的にはまずありえない話なのである。
いくら田舎に看板を掲げる狭い世間の拝み屋とはいえ、拝み仕事は私だけの専売ではない。 水谷さんや華原さん以外にも、この地元界隈には数多くの同業が存在する。
それなのにまるで狙い定めたかのように、私の元へ椚木の一族からの依頼が集中していた。
同時にこの時になってようやく、黒岩家で目撃した千草の正体が分かった。
先ほど、水谷さんの仕事場で昭代がこぼしたひと言が、耳の奥で蘇る。 しかも娘の顔は、若い頃の姑にそっくりなんです―――。
あれは千草ではない。――百合子である。
一体何が起きているのか。木の一族だけではなく、私自身の身にもである。
絶対に関わるな。
先刻発した水谷さんの警告が脳裏をよぎる。だが、居ても立ってもいられな くなっていた。もはや真相を知らないことには、気持ちがざわざわとして落ち着かなかった。
不幸中の幸いか、家系図の中になんらかの回答を提示できうる人間が、ひとりだけいた。
震える指で携帯電話を手繰ると、私は千草の番号を押し始めた。
母と子と犯せる罪 【平成十七年八月二十日】
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それから一時間ほど経った、午後の五時過ぎ。千草が私の仕事場を訪れた。
当初、こちらが千草の自宅へ伺うと伝えたのだが、千草は逆に私の仕事場を指定してきた。今回も美月が不在だったので所在を尋ねてみると、「きちんと 託児所に預けてきました」と、露骨に厭な顔をされた。
「それで――お母さんに会ったんだ。元気だった?」
母親の近況をまっすぐに案じる眼差しと声色。
昭代の近況を尋ねる千草の面差しは、今まででいちばんまともなものに見え た。けれどもその顔は、六月に会った頃よりも心なしか幾分、やつれているよ うにも見受けられた。
「元気でしたよ。きちんとお祓いと供養を受けて帰っていきました」
「そっか。 元気だったらそれでいいんだ」
まるで自分を納得させるかのように、千草は小さくこくりとうなずいた。
「母親って、百合子さんのことだったんですね」
「正解。 やっと分かってくれた」
小鼻に軽く皺を寄せ、千草がくすりと微笑む。
「あいつはろくでもない女だったのよ。 小さい頃からお母さんがかわいそうで 仕方なかった。で、なんなの? あたしのところだけじゃなくて、お母さんの とこにも出てたんだ、あいつ。やっぱりろくでもない人間って、死んでからも ろくでもないんだね」
「それで、その件も含め実はお伺いしたいことがあるんです。 これ、見ていただけますか」
不快そうに顔を歪める千草の前に、椚木家の家系図を広げてみせる。
「うちの家系図だよね。これがどうしたの?」
これまで相談に訪れた椚木家の親類たちの話を時系列順に、私は千草に語っ て聞かせた。大層込み入った話だったので、全てを説明し終えるのに一時間ほ どかかった。 「嘘......そんなふうになってたんだ・・・・・・」
話の初めからすでに色を失い始めていた千草の顔は、今やすっかり真っ青に なっていた。
「あくまでも憶説になりますが、あなたの母親"百合子さんが今年四月に亡 くなったのを起点として、あなたの相談も含め、私のところには椚木の一族か らこの二ヶ月の間に、実に六件もの相談が持ちこまれています。 水谷さんの元 へ相談に伺った昭代さんの件も含めると、全部で七件です。 これは何を意味す るものなのでしょうか?」
ご存じではありませんか?
座卓の上で両手を組み、千草の答えを待つ。
「――原因はね、母様だと思うの」
「なんですって?」
千草の蒙昧な返答に、頭が再び混乱の兆しを報せる。けれどもすぐに思いだした。
前回の話の中で、千草は〝母”を指す言葉をもうひとつ使っていたのだ。
すなわち「母親」 「お母さん」そして「母様」。
「椚木の家から母様がいなくなったから、こんなふうに荒れてるんじゃないかな?」
以前と同じく、まるで要を得ない千草の言葉に私は焦れる。
「母様とは、誰のことなんです?」
「前にあたし、郷内さんがあたしの話を全部分かったらきちんと説明するって 言ったよね? でも多分、まだ全部分かってない。・・・それでも知りたいの?」
関わるな、という水谷さんの言葉が再び頭中をよぎる。だが無視した。
「教えてください。 お願いします」
「分かった。 でも後悔しないでよね」
目にうっすらと憐憫のような色を見せた千草に、なぜか首筋がぞわりと粟立った。
「あたしは椚木昭代の娘じゃなくて、 百合子の娘。 これはもう知っているよね?」
「ええ」
「あたしの娘、 高鳥美月は、あたしと元旦那の子供じゃないの。――椚木鉄男 の子供です」
一瞬誰のことなのか分からなかったのだが、分かったとたんに血の気が引いた。
「うちの養豚を手伝いに来てた叔父。 あたしの祖父ちゃんの弟。あいつが美月 の父親なの」
「何があったんです?」
訊かずとも分かったが、口から自然と問いが出てしまった。
「十九の時さ、夜中、家に帰ったら庭先に叔父がいたのよ」
その晩、百合子は旅行で家を空けていたのだという。
「べろべろに酔っぱらっててね。 『おめえ、だんだん母ちゃんに似てきたな』 なんて言うの。 あ、母ちゃんってのは百合子のことね。あとは豚小屋に引っ張 りこまれて」
分かるでしょ? 目配せをした千草に私は「はい」とだけ答えた。
「どうして産んでしまったんです? 望んで授かった命じゃないでしょう? しかも相手が相手です。お母さんにもさんざん怒られたと聞いています。 どうしてなんです?」
とたんに千草の両目がかっと大きく開かれた。
「あんたバカじゃないのッ!」
座卓の向かいから身を乗りだし、 突然怒声を発した千草に私はたじろぐ。
「生まれてくる子はそんなの全然関係ないじゃない! 誰が親とか関係ないんだよ!」
だって美月は美月だもん........。
激昂したのち、千草はぐすりと洟を啜りあげた。
おそらく千草は、美月の出生に自分自身の不穏当な出生を重ね合わせている のだと感じた。そのうえで彼女は、生まれてきた娘を精一杯愛そうとしている。
それは、千草自身が仮の母・昭代から愛されなかったことの代償行為なのか もしれないし、それよりも純粋に、母親として本来あるべき温もりを娘に与え たいだけなのかもしれない。
そう考えると、とたんに千草の胸中がひどくいじましいものに感じられた。
「失礼しました。私が浅はかでした」
心ない発言を千草に詫びる。 自分の無神経さにほとほと嫌気が差した。
「いいよ。普通はそういう発想になるもんね。でね、叔父の話は続きがまだあるんだよ」
もう聞きたくないとは思った。けれども聞かずにはいられない自分もまた、確かにいた。
千草を制することなく、無言のまま彼女の声に引き続き耳を傾ける。
「叔父の子供産んでるの、あたしだけじゃないんだよ」
千草の声が醸す冷たい響きが、胸くその悪くなるような直感を次々と私に湧き立たせる。
「お父さんの上の妹、紀子。 それから下の妹、千恵子。 こいつらの子供も、叔 父の子供」
千草の証言を椚木家の家系図に照らし合わせ俯瞰する。頭の芯がぐらぐらす ると思ったら、気づかぬうちにがたがたと震えている自分がいた。
家系図から武徳の上の妹、紀子の名に目を向ける。
家系図には記載されていないが、私は紀子の娘を知っている。 園子である。
園子の相談内容を思いだしたとたん、身体の震えがさらに激しさを増した。
母・紀子の仏前に現れたという白髪頭の老人。年代から推し量り、さらには 千草の告白を統合すると、それが誰であったのか判然とする。
おそらくは鉄男なのである。紀子が娘の出自を語らなかった理由も、これで 合点がいった。
「叔父が自分で言ってたんだよ。 『おめえが初めてじゃねえんだ』って。 紀子 椚木の家とおばさんって人はあたしが生まれる前に家を出てんの。それ以来、 は絶縁状態にあったみたい。けど、そっか。亡くなってたんだね」
目の色をふっと陰らせ、 独りごちるように千草が言った。
鉄男の妻・菊枝が鉄男の位牌に蛆殺しを供え、すでに亡き鉄男を二度死なせ たというのが、今年の五月下旬の話である。 一方、園子が母・紀子の遺影の前 で鉄男の亡魂を目撃したのは、その後、六月半ば辺りのことだった。
なんのことはない。 菊枝の心配など杞憂だったのだ。死んだ鉄男はまだ“ご在世”である。
続いて家系図から武徳の下の妹・千恵子、さらにその息子・真也の名前に目を向ける。
「この真也という息子、もしかして面識がありますか?」
「うん。一応、幼馴染みたいなもんだからね。ただ前にも話したけど、あたし が小学校の頃、母親にこてんぱんに殴られてから出入り禁止。 それ以来会ってない」
あ、会ったか。言い終えたあと、千草がすかさず訂正した。
「いつです?」
「百合子の葬儀の時。 木の家の敷居を跨いだのは、十五年ぶりぐらいだった んじゃない? まあ、あたしも家を飛びだしてからろくに帰ってなかったから、何年かぶりだったんだけど。とにかくその時に一度会ってる。何? こいつのこと、気になるの?」
座卓に少し身を乗りだしながら首を伏せ、千草が私の反応をうかがうように言った。
「まあ強烈なキャラだったので、印象には残っています」
「いい線いってるよ? 冴えてきたね」
冗談めかして相槌を打った千草の顔は、だが真剣そのものだった。
「真也の母親の千恵子も叔父に孕まされて、家を飛びだしてる。でも紀子おば さんと違ってこっちは玉の輿を見つけたの。あの人、いかにも男好きするみた いな雰囲気じゃなかった?久々に葬儀で見た時もびっくりしたよ。けばくって」
千草の指摘どおり、確かに仕草も服装も、千恵子はいかにも男好きのする雰 囲気だった。
「どんな手を使ったのかは分かんないけど、 千恵子はもうだいぶ歳がいって跡継ぎもいない旧家のお爺さんに嫁いだんだよ。旦那は歳だから結婚して何年もしないうちに死んじゃって、あとはもう金に飽かせてやりたい放題って感じ」
来訪時、千恵子の話していた言葉が記憶に 蘇る。
――なんとか示談で落ち着いてもらいました。
そういうことかと、またひとつ腑に落ちる。潤沢な資金があったればこその離れ業である。
「とにかくあの鉄男って叔父は、とんだけだものだよ。百合子も同じか、それ 以下のド変態。言いたくなんかないけどさ。叔父とお父さんをとっかえひっか え、時にはふたりいっぺんに。そんなことを何十年もやり続けてきたんだよ。 もう最低でしょ? 椚木の家の裏に建ってるあの豚舎。 あれさ、あたし思うん だよね。飼ってる家畜は豚だけど、それを世話する連中もみんな豚だったって。豚舎の脇に建ってる木小屋は、種つけ小屋だよ。 気持ち悪い」
大仰に顔をしかめたあと、しかし千草はふいにすっと顔色を曇らせた。
「......ううん。違うな。確かに叔父は最低の人間だったし、母親も最低の女 だったとは思う。それに加担していたあたしのお父さんも確かに人として最低 だ。でもね、本当は違うんだよ。多分違うの。みんな、おかしくされてしまっ たんじゃないかって、あたしは思うんだ」
母様に――。
先月、千草宅の帰り際、背中越しに聞いたあの凜と透きとおった声。あの時 と同じ声風で千草は私の目を見て、言った。
再び千草に問う。
「本当に、母様って誰なんですか? 覚悟はできています。 そろそろ教えてください」
「覚えてる? あたしが小学校の時、実家の屋根裏で見つけたもの」
黒い漆塗りの箱に収められた。ああ思いだした。
「あれが母様。もう首だけしか残っていない、でもそれでも生きてるヘンな存 在。もちろん、あたしの母じゃない。でもね、口にだして名前にすると、自然 にそう呼んでしまうんだ」
母様って。
再び凜と透きとおった声で、千草が言った。
「最初は会うのが楽しくて楽しくてしょうがなかった。 優しい声でころころ 笑ってくれてね。言葉が意味不明で何を言ってるのか分かんなかったけど、別 にそんなの構わなかった」
でもさ、と千草はさらに続けた。
「母親にバレてボコボコにされた時、初めてあたし、怖くなったんだよ」
千草の顔が、苦悶のそれへと大きく歪む。
「母様を天井裏に隠して大事にしていた母親も怖かったし、あたしたちを殺す ような勢いで殴りつけた母親の形相も怖かった。でもね、本当に怖かったのは ......分かるでしょ?」
分かる。だから私の顔も、怖じ気を含んで強張った。
「首だけで生きていられる人間なんているわけないじゃん。前にも話したとお り、あたしは小さい頃からお化けはたくさん視てきているよ。でもあれは、単なるお化けなんかじゃない。ちゃんと触ることもできたし、幻みたいに掴みどころのないものでもなかった。あんなのと自分が毎日のように話していたのか と思ったとたん、初めてあたし、怖くなったんだよ」
語り終えた千草はぎゅっと唾を呑みこみ、わずかに唇をわななかせた。
ついふた月前のこと。初めて千草からこの話を聞かされた時、私の心は半信半疑だった。
話の内容が荒唐無稽過ぎるという点も、理由のひとつではある。しかし、それ以上に私を不審がらせていたのは、当時の千草に掴みどころのない異様な印 象があったからこそだ。 しかし今、座卓に向き合い言葉を交わし合っているこの千草はどうだろう。
言動も的確で全ての回答に辻褄が合っているし、受け答えも明瞭である。以前とはまるで別人かのように、今の千草の人格は至極真っ当なものに思われた。
だが今度は逆に、このまともな千草の存在を、私は空恐ろしく感じ始めてもいた。
「母様について、他に何か知ってることはないですか。 あればぜひ聞かせてく ださい」
否。厳密には千草が怖いのではない。 いつのまにか千草の話を全面的に信用しきっている自分自身の心こそが、私は怖かったのだ。
つかのま、横目で視線を虚空に流したあと、千草は再び口を開いた。
「昔さ、それも大昔のことね。あたしがまだ四歳か五歳ぐらいだった頃よ。た またま布団を並べて眠った母親が、うっかり口を滑らしたことがあるの。とい っても本人は、子供相手の昔話みたいなノリで喋ったのかも知れないんだけ ど。.........でも、あたし思うんだ。この話が仮に本当の話なら、これこそが母様と椚木の家の始まりだったんじゃないかなって」
そう言うと、千草は少しずつ記憶を手繰るようにして、奇妙な昔話を語り始めた。
畜犯せる罪 【昭和四十年代初頭冬】
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百合子の亡き夫、並びに義父母が在世で、なおかつ彼らがこの世を去る直前 の話だという。だからおそらく、時代は昭和四十年代の初め頃だと推定される。
それは、ある冬の日に起きたことだった。
昼下がり、若かりし百合子が居間の窓辺で裁縫仕事をしていると、血相を変 えて狼狽えた様子の義父が、 家内へ転がるように飛びこんでくるのが見えた。
義父は慌ただしく家の奥へ向かったかと思うと、今度は両手に散弾銃を抱えて戻ってきた。 それは普段、温厚で大人しい気質の義父からは、到底信じられ ない行動だった。
物々しい様子に驚いて居間から飛びだし、「どうしたんですかッ!」と百合 子が尋ねると、義父は「お前もすぐに来いッ!」と怒声を発し、矢のような勢 いで玄関口を出ていった。
この日、戸外には昨晩遅くから降った大雪が、膝まで埋もれる高さとなって堆積していた。庭に積もった雪は朝方から一家総出で掻き分け、雪中の方々に 狭い小道ができていた。
義父はざくざくと音を立てて踏みしめながら、小道の上を全速力で駆け抜けていく。
義父の怒声に驚いた百合子も長靴を履き、慌てて玄関を飛びだした。
わけも分からず義父の背中を追って向かった先は、屋敷の裏手に立つ豚舎だった。
義父は豚舎の外壁伝いをさらに奥へと進み、豚舎の裏手へ回りこむ。豚舎の裏には木製の柵を張り巡らせた放牧場があり、常には数十頭の豚が天日の下を闊歩する光景があった。
しかしこの日、大雪に覆われた放牧場の中にいたのは、豚ではなかった。
黄金色の仮面のような顔に鮮やかな緑色の体色をした、獅子舞のごとき獣だった。
獣は全部で十数頭ほどいた。
一頭は、成長しきった母豚と同じぐらいの大きさ。他の獣は中型犬とほぼ同 等の大きさで、一際大きな一頭の周囲にぎゅうぎゅうと身を寄せながら群がっ ていた。
百合子が奇妙な獣の姿を目にして唖然となるなか、義父の構えた散弾銃が火 を噴いた。
「ずどん!」と銃声が轟いた瞬間、小さな獣たちは蜘蛛の子を散らすように木柵を飛び越え、放牧場の裏手に広がる杉林の中へ一目散に飛びこんでいった。
あとに残ったのは、横倒しになって雪の中に半身を埋もれさせる、 一際大きな獣が一頭。
同じくその傍らに横たわる、血まみれになった母豚の亡骸だけである。
「仕留めてやった。ざまあみろ・・・・・・」
荒い吐息混じりにつぶやくと義父は銃をおろし、木柵を跨いで放牧場の中へ 入っていった。辺りを見回すと、 木柵の外側には顔色を失って立ち尽くす夫と 義母の姿もあった。
義父が木柵を飛び越えてまもなく、夫と義母も放牧場の中へ入っていった。
百合子もあとに続いて、家族と一緒に倒れた獣を囲んで仔細を見おろす。
間近で目にしてみると、おぞましさも一入だった。背筋がわなわなと震えて 冷や汗が滴り、鼻先で綿菓子のように膨らむ冷たい吐息も大きくなって、急速 にその数を増やしていく。
淡白い雪の上に倒れた獣は、百合子がこれまで一度も見たことのない異様な 姿をしていた。否。獣と断定することすらできないほど、それは奇妙な風貌をしている。
たとえば先刻、仮面のように見えた獣の顔は、本当に仮面のような相貌と質感をしていた。初見の際に獅子舞を連想してしまったのも無理からぬ作りだと、百合子は思う。
恐る恐る獣に顔を近づけ、細部にわたって視線を配ってみると、獅子舞というよりむしろ、南国の土産物屋に並ぶ派手な意匠の仮面に近しい趣きがあった。
顔の半分を埋め尽くすほど大きく丸い目玉はやはり仮面のごとく、かっと見 開かれたまま。鼻は平たく小さい一方、口は顔の端から端まで大きく裂け、両脇に鋭く太い牙が生えている。耳は人間のそれと同じく顔の両脇に伸びていたが、先端は鋭く尖って斜めに伸びていた。
大きな身体と不釣り合いに頭部は妙に小さく、大きさはちょうど百合子の顔と同じくらい。頭の上には牛のような短い角が、等間隔で横並びに五本生えている。
頭部はごつごつと硬そうな質感を帯びて黄金色の一色に染まり、晴天の冬空 から降り注ぐ薄い日差しを浴びて鈍い光を放っていた。
身体の作りも人工的なものだった。
遠目には緑色の体毛と認識していたものは、毛というよりは太い荒縄の束のようなもので構成されていた。表面は螺旋状に捻じれ、体毛というより神社のしめ縄を彷彿させる。
そのあまりにも異様な姿を目の当たりにした百合子はつかのま、獣の正体はもしかしたら母豚に着ぐるみでも被せたものなのではないかと勘繰りもした。
だが、これがそんなものではないことは、傍らで蒼ざめながら硬直する家族の姿を見れば、有り得ないことだと容易に察することもできた。
足元で横臥する得体の知れない獣は、着ぐるみを被せられた豚などではない。
だがしかし、まともな生き物であるとも思えなかった。
破れた腹から覗く臓物が、無言でそれを証明しているかのように煌めいていた。
先刻、義父の放った銃弾は獣の脇腹に命中し、砲丸ほどの丸くて大きな風穴 を開けていた。脇腹からどろどろとはみ出た臓物は色とりどりの蛍光色で、虹のように豊かな色合いだった。
こんなにも鮮やかな色みをもつ臓物を腹に抱えた獣など、 この世にいるのだろうかと思う。臓物からは薄く湯気が立ち上り、溶かした蠟燭を思わせる脂っぽい臭いが漂ってくる。
「これは一体、なんなんですか......?」
震えながら発した百合子の問いかけに、義父は重々しい口ぶりで説明を始めた。
つい先ほど。傷を負った母豚を放牧場に引きだし、解体しようとしていた時だという。
本来、家畜の処分は所定の屠畜業者に委任することが屠畜場法にて定められているのだが、この日は大雪のため業者を呼ぶことも叶わず、やむなく自家で処分することになった。
義父母と夫の三人で母豚を放牧場に引っ張りだし、頭に金梃子を振りおろし て絶命させる。
その場に母豚の死骸を放置したまま、死骸の解体と処分に用いる道具一式を 取りに三人で近くの作業場へ向かい、再び帰ってくるとそれはいた。
義父たちがぎょっとなって立ち尽くすのを尻目に、得体の知れない獣たちは 母豚の死骸に蟻のごとく群がり、じゅるじゅると湿った音を立てながら体液を啜っていたのだという。
「こんなものは俺も見たことがねえが、きっと山神のたぐいじゃねえかと思う」
言いながら獣の傍らに片膝を突いた義父の顔には、どこか恍惚とした色が浮かんでいた。
「しっかし、なんと綺麗な神さんだろう。これをこのまま捨て置くのは痛まし いなあ......」
百合子もこの時、義父と同じ思いを抱いてしまう。
黄金色に光り輝く獣の顔は、それは大層美しいものだった。 そこらのちんけな害獣などと同じく扱ってどこぞに遺骸を捨て去るのは、なんとも痛ましいものだと感じた。
その後、義父は獣の首を手斧で切り落とし、 「家宝にする」と宣言した。
百合子を含め、義父の意志に反対する者は誰もいなかった。
獣の首を両手に抱えた義父を筆頭に、豪雪を掻き分けた小道を並んで屋敷へ戻り始める。
その道すがら、裏手の杉林のほうに百合子がふと目を向けると、先ほど散り 去っていったあの小さな獣たちが、こちらの様子をうかがうように見つめていた。
獣たちは樹々の陰から黄金色の顔を突きだし、微動もせずに義父が抱える大 きな獣の首に視線を注いでいるように見えた。
それからしばらくして、義父と義母が立て続けに病に臥して亡くなった。
さらにしばらく経ったのちには百合子の夫も長患いの末、苦しみながら死んだという。
椚木の家にはその後しばらく、百合子と幼い子供たちだけが侘しく住まうことになった。
「・・・・・・山神さまを粗末にしちゃった罰が当たったのかもねえ」
電気の消えた薄闇の中、百合子は頭上に遠い目を向けながらつぶやいた。
「その神さまはどうしたの?」
隣に並んで横たわる千草が恐る恐る尋ねると、百合子はこちらを向いてにんまりと微笑み、それから一拍置いてこんなふうに答えたのだという。
「あれは、お祖母ちゃんが大事に手を合わせて拝んでいるから、もう怒っていないんだよ」
と。
拝み屋怪談 花嫁の家その2
関連項目
真夏の夜の淫夢
郷内心瞳
郷内冷えてるか~
酷評してホカホカさせたいけど
出だしからおもんなくて読めない
こんなの金買って読むやつの気が知れない
熱心に読み込んで2時間分ものBB劇場を製作したバナニーを刺すのはやめろ
郷内を貶すと自動的にこいつに目をつけたバナニーのセンスも貶められるのが哀れ。
バナニーとかいう初期の重要人物
内容を改悪してないからセーフ
拓馬もまんざらでもない顔
創作ホラーのくせに本当にあったような口ぶりなのがキモい。嘘つくな
普通に文体がつまらん。怪談師をかじってるらしいが、その怪談を文字起こししただけって感じ。抑揚と身振り手振り前提だから話自体は中身ガバガバどころかスカスカ。芸無しの末路
行間がないから淡白すぎるんだよね。砂食ってる気分だわ
一通り読んでいないのだが、最底辺のクォリティと言わざるを得ない代物だった
ほとんど読んでないけど新語録になりそうなのどう、出そう?